●ぼくは普段、旅行へ行きたいとか、海や山へ出かけたいとかいう欲望はほとんどなくて、部屋に籠っていることが全く苦にならないのだけど、夏の間は時間が許す限りできるだけ「外」にいたいという気持ちが強い。外といっても、近所を散歩したり、目的もなく電車に乗って、適当なところで降りてぶらぶらしたり、疲れたら喫茶店にでも入って窓際の席でぼーっと外を眺めている、とか、そんな程度で、とにかく「外」の光と空気に触れていさえすればそれで充分なのだが。
●学生の頃は夏こそ学校に熱心に通っていて、それは普段何十人かで使っているアトリエをほぼ一人で占領できるからで、アメリカの画家の画集なんかに載っているスタジオの写真を見ると、まるで体育館のように広いところで制作していたりするのだが、学生の時はぼくも夏と冬の休みの間だけは、アメリカの成功したアーチストみたいな環境で制作できたわけなのだった。でっかいパネルをたくさん作って、大作を何点も並べて平行して制作できるという環境は、今考えると本当に何とも贅沢で幸福な環境で、しかも時間の制約なんてほとんどないので、朝、適当な時間に起きて、気分によっては歩いて学校まで行き(歩くと一時間半以上かかった)、一日中好きなだけ制作出来たし、煮詰まったら、人影もまばらな構内でぼーっとしたり、山の中に学校があった(現在は移転した)ので、ふらふらっと山道に入っていったりも出来た。ただ、夏は危険な虫とか毒蛇とかいるのだけど。(あと、学校の付近の山は有名な「心霊スポット」だったりもしたけど。)夜の9時過ぎに、学校から駅までの最終バスが行ってしまうので、それに乗れなければ、街灯もあまりないような夜の山道をとぼとぼ歩いて下るしかないのだが、真っ暗な道を、頭のなかで鳴っているのか外で鳴っているのか分からなくなってしまうくらいに響く虫の声のなかを歩いてゆくのは、それはそれで気持ちがいいのだった。多分、そのような行き帰りの行程や生活のペースも含めて作品を制作する「時間」なわけで(つまりそういう時間のなかで、そういう時間によってしか作れない作品の豊かさというのがあるわけで)、現在のぼくは住んでいるところとアトリエが一緒で、それは学生の頃のようには時間に余裕がないので便利だし必然なのだけど、それによって失われているものが多々あることは否定できない。だいたい、美術館や画廊で作品を観るということにしても、作品を観ている時間よりも、そこまで行って帰ってくるという移動の時間の方が長いわけで、その、作品を観るために空間を移動する時間も重要で、それも含めて作品は観られるのだとも言える。(小さな画廊などは大抵、奥まっていたり分かりづらかったりする場所にあり、はじめて行く時などは地図をたよりに迷いながらその街の空間に分け入って行くという感じになる。)さらにそれは、作品を観るためにはその人が生活する時間そのものに(そして「頭のなか」にも)ある程度の余裕が必要とされるということでもあって、それが、現在において、人が「美術」に触れる時の最大の「障害物」となっているとも言えるかもしれない。