●日付を間違えた。以下は五月七日の日記で、五月八日の日記は七日のところにあります。
●引用、メモ。中沢新一「数学と農業 「自然史過程」について・2」(「新潮」6月号)より。
《「層」には、数と言語を貫いて働いている喩的な作用が生き生きと動いています。喩は二つの対称の間に感じ取られる「似ているところ」と「それぞれで独自なところ」を同時にとらえることを可能にするメカニズムです。「似ているところ」は認識の背景に沈むので、いわば地の部分にあたります。これにたいして「それぞれ独自なところ」は図にあたり、喩は二つの図にあたる部分を、地を介してつないでいることになります。「層」の考えでは、数というものも、その自然な姿では(ということは、言語と一体になって人類の心=脳のプライマルな土台において現れている限りでは)、喩的な作用をとおして働きをおこなうととらえるのです。》
《この絵(エッシャーの「空と水2」のこと)のどんな微少な場所にも、言語と数のプライマルな土台である喩の作用が働いています。「層」という新しい数の概念は、ときどきこのエッシャーの絵を使って説明されますが、そこでは数は地の上に浮かび上がった図であることをやめて、地と図がループでつながってしまった、それ自身が「不思議な環」として定義されることになります。そこで地とはなんであり、図とはなんであるのかは、とても難しい問題です。岡潔だったら、地とは人類の数直感の基礎をなしている「情緒」であり、図とは言語の喩構造が生み出すフォルムにほかならない、と答えるかもしれません。いずれにしても「層」のような概念が発見されてしまうと、数はもはやいままでどおりの数ではなく、内部に運動をはらんだ生命体のように思えてきます。》
《そう考えてみると、岡潔による「層」の発想や、それをもとにしてそののち展開したグロタンディークの数学などが、形式化された数の概念を心=脳のプライマルな土台に「不思議な環」で結んで、新しい数や空間の考えを生み出そうとしていたことこそが、はっきり見えてくるでしょう。この「不思議な環」こそが、数学とその外部である自然を結ぶインターフェイスの構造そのものです。数学のような抽象的な学問でさえ、深く自然に埋め込まれた人類の営みであることを、彼らはみごとにしめしてみせました。》
《現代数学にすでに実現されているこのような「インターフェイス構造をもつ科学」というものを、他の思考の領域にもつくりだしていき、ついには技術の質にまで変化を及ぼしてゆくこと。これが私たちの取り組むべきほとんど唯一の現代的課題でしょう。それができてはじめて、原子力発電の技術に象徴されるようなモダン科学の限界を、ほんとうの意味で乗り越えてゆくことが可能になるのだと思います。》
《ところが驚いたことに、十八世紀につくられた経済学には、素朴な形ではありますが、それをはっきりと見出すことができるのです。(略)
ケネーのフィジオグラシー(重農主義)経済論には、たしかに先ほどから話に出てきた「不思議な環」が組み込まれているように思われます。それは農業の性格を考えてみれば当然の考え方かもしれません。農業は太陽の光と水と土と空気に依拠している産業です。自然の循環的なサイクルを基礎として、そこに人間の知識と労働が付け加わって、はじめて農産物がつくられます。ですから、農業は階層の違う二つの要素の組み合わせでできていることになります。一つは植物による太陽エネルギーの変換をもとにしている循環的なサイクルであり、もう一つは他の産業と異なるところのない、知識と労働による非循環的サイクルです。これを別の視点から見ると、太陽エネルギーを中心とするお金に換算できない贈与的関係と、お金に換算することのできる労働との結合でできています。この二つの階層が「不思議な環」を介して、ループ状に結合されているのが農業です。》
●引用した一つめのブロックには、二つの図が共通の地の媒介によってつながるということが書かれている。二つめのブロックでは、潜在的な地のなかから図が顕在化し、その顕在的な図か集まって再び地へと潜在化するというループのことが書かれている。つまり、一つ目と二つ目とでは微妙に違うことを言っている。しかしこの微妙に違う二つが立体的に重ね合わせた図柄こそが、おそらく中沢新一が言いたいことだ。図と地の間には「ひとひねり」がはいっている。
エッシャーの「空と水」で一番おもしろいところは、画面の中央だろう。黒が鳥なのか水なのかわからず、白もまた空なのか魚なのかわからなくなっている地点。この、識別不能な領域こそが「ねじれ」であり同時に「つなぎ目」であろう(たとえばセザンヌの絵は画面のすべての場所がこのような領域になっていると言ってもいい)。
●これと似た感触の話が『宇宙は本当にひとつなのか』(村山斉)にも出てきた。アメリカのリサ・サンドールという物理学者の唱える多次元宇宙論
《私たちの住んでいる三次元の膜の他にもう一つ、三次元の膜があるとしましょう。この二つの膜の間には異次元が広がっています。この異次元は私たちの住んでいる三次元の世界では小さかったものが、もう一つの三次元の世界の方に近づくにつれて空間の大きさが広がったりします。こういう効果のある異次元のことを曲がった異次元といいます。私たちの住む三次元に一〇円玉を置いたとして、異次元を通ってもう一つの三次元空間に行くと大きく引き伸ばされて太陽系よりも大きくなってしまいます。》
《一つの三次元の膜に私たちがいるとします。もう一つ別の三次元空間の膜があります。重力はその間の異次元空間を動くことができますので、異次元空間のいたるところで見ることができます。仮に重力の源がもう一つの三次元空間にあり、私たちのいる三次元空間で見ることのできる重力はその一部だけだったとします。もう一つの三次元空間では大きな重力も、私たちのいる方ではすごく小さくなってしまうということはあり得ることです。》
《このように考えることでどうして重力が弱いのかが説明できるのではないかというのが彼女の理論です。》
●二つの三次元空間があり、その間を異次元がつなげつつ分かち、ねじ曲げている。一方の十円玉大が他方で太陽系大であり、他方で強い重力は、一方では弱くなる、と。この異次元の話は、中沢新一の言っている喩や農業の話と同型であると言えるんじゃないだろうか。農業とは喩であり、異次元である、と。