2021-06-04

●『佐々木、イン、マイマイン』に引用されていたテネシー・ウィリアムズの戯曲「ロング・グッドバイ」(「現代演劇テキスト集」より)。オリジナルで「おふくろ」となっているところが、映画では、物語の内容に合わせて「おやじ」に書き換えられていた。

 

ジョー:(じっとそれを見つめて)あのベッドの上で、俺は生まれたんだ。

シルバ:おいおい、よく見ろよ、もうただの普通のベッドだ!

ジョー:マイラもあの上で生まれた……

三人、ベッドを置いて出ていく。

おふくろはあの上で死んだ。

シルバ:あっという間だったんだって? ふつう癌だったら、もっと長引いて、もっと苦しむところだけどな。

ジョー:自殺だったんだ。あの朝、ゴミ箱に空瓶を見つけた。……でも、あの人が恐かったのは、体の痛みじゃない。医者と病院の支払いだ。俺たちに保険だけは残そうとして……。

シルバ:知らなかった。

 

http://www.ilaboyou.jp/text/text_LongGB.html

 

この映画には、たとえば、冒頭近くの主人公と同棲相手の会話、「バッティングセンターに行きたいな」「飽きたのかと思ってた」「タイミングがなかっただけ…」からはじまる「バッティングセンターの主題」があって、この主題の様々な展開があった後、佐々木がホームラン王になっていた、という驚きの場面に着地する。このように、ちょっとやり過ぎかと思うくらい細部が綿密に作り込まれているのだけど、パッと見だと、熱と勢いで押し切っているような映画にもみえるという不思議さがある。

(昨日のくり返しになるが、この映画の「佐々木」は、特別な人物でもないし、ヤバい奴でもない。多少、生育環境に恵まれないところがあった、地方の普通の高校生でしかない。佐々木を何ら特別視していないところこそがこの映画の美点だと思う。普通の高校生である佐々木と、普通の高校生である主人公の、高校時代とその後の話であり、普通の高校生である佐々木が「父の死」という事態に直面した時に、普通の高校生でしかない主人公は何もすることができなかった、いやそもそも、自分は佐々木という身近にいた友人に対して普段から適切に接することが出来ていたのだろうか、佐々木に対する自分たちの態度はあれで正しかったのか、という疑問を主人公がもつ---佐々木を全裸に「させた」のは自分たちではないか---という話だと思う。高校時代から、物語の現在時まで、ノスタルジーとは無関係にずっと変わることなく主人公が持ち続けているのは、この「疑問」なのではないか。だからこそテネシー・ウィリアムズが引用される。重要なのは佐々木のエキセントリックさではなく、ただの佐々木の存在であり、佐々木との関係から浮上したこの「疑問」なのだと思う。)

(追記。高校時代、まともにバットにボールを当てることも出来なかった佐々木が、亡くなる直前には地元のバッティングセンターで月間ホームラン王になっていた。それはつまり、佐々木という人が、目標に向けてコツコツ努力するような、普通に真面目な人だったということを表しているだろう。そして同時に、高校時代の佐々木はキャラとしてその場だけで大げさに悔しがってみせていたのではなく、本当に、それを後々までひっぱるくらいに、打てないことが悔しかったのだということの表現でもあろう。だからこそ主人公は、自分たちの佐々木に対する態度こそが佐々木に---いかにも佐々木らしい佐々木として---「破天荒キャラ」を押しつけていた、とまでは言わないとしても、それを必要以上に「強化させて」しまっていたのではないかという疑問と罪悪感をもつのではないか。佐々木の佐々木らしさは、本当に彼自身からくるものだったのか。ごく普通の高校生である佐々木が「無理をしている」ことに気づけなかったということではないのか、と。)