●『火山のもとで』(ジョン・ヒューストン)。観ることのできないVHSを、黒川幸則さんがデータ化してくれたので観られた。日記を検索すると、前にこの映画を観たのは2005年で、17年前だ。マルコム・ラウリーの小説は未だ読んでいない。
この物語には、妻の不貞とナチスの台頭という二つの重要な背景があり、この背景故に悲劇的なラストに向かって進んでいく。しかし、映画としては、二つの背景がとってつけたようになってしまっていて、悲劇としてのこの作品はそんなに上手くはいってはいないように思われる。しかし、悲劇的結末に向かうラストの30分より前の部分は、悲劇というよりも、鈍重で騒がしくて喜劇的な「酩酊映画」であり、初老の男が、死者の日の喧騒を背景に、荒い息で思う通りに動かない重たい体を引き摺ってひたすら酔っ払っている映画としてとても魅力的だと思った。
身体的には、老いていく衰えと、そこへのアルコールの侵入があり、精神的には、妻を強く求めることと、妻と腹違いの弟の不貞がどうしても許せないという激しい葛藤があり、外的な状況としては、ナチスに支援された(不正を行うならず者的な)地元の右翼の台頭がある。主人公を苛むこの三つ巴の苦難が、主人公とその妻を悲劇的な死へと導いていく。物語を要約的に書くのなら、こういうことになるだろう。だが、映画そのものとしては、八割がた、主人公の身体的な重さ、辿々しさ、覚束なさの描写にウエイトが置かれているように見える。そしてそここそが面白く、魅力的だ。
(重ったるくて動きの鈍い主人公に対して、腹違いの弟は、ふっと闘牛に参戦して、見事に振る舞い、人々の喝采を受けるような「動ける」人物で、それを見た主人公がまた、妻と弟との過ちへの嫉妬を燃やすことになるのだが、この対比はやや分かりやすすぎるというか、通俗的であるようにも感じられた。)
一人では何もできないのにやたらと態度がでかい(何かと一席ぶつ)傍迷惑な困ったおっさんが酒を飲み続けてずっと酔っ払っている。その背景に、祭りの喧騒があり、闘牛の熱狂があり、いかがわしい娼館の異様な雰囲気がある。この困ったおっさんの、いわば身体的な存在感とでもいうようなものを、ただただ見る映画だと思う。普通に考えれば、なぜそんなものをわざわざ見せられなければならないのか、というところだが、そこに一人の男の身体があり、存在がある、ということが、映画ならではのあり方で、とてもなまなましく提示されている。
(晩年のジョン・ヒューストンは文学づいていて、この映画の他にも、ジェイムス・ジョイスを映画化した『ザ・デッド/ダブリン市民より』があるが、これも今ではなかなか観られない。)