2024-09-07

⚫︎生成AIの学習のためのデータのなかに、生成AIによって生成されたものが混じってしまうと、学習中のAIが崩壊してしまうという記事(きわめて雑な要約だが)を読んだことがある。自分が書いたものについて、自分以外の誰かが書いたものを、さらに自分が引用してコメントするという行為は、これに似た崩壊的循環に繋がりかねない危険な行為であるかもしれない。たとえば、このような反響的循環が行き過ぎることが、SNSで起こるエコーチェンバーを引き起こすのかもしれない。

そのような危険の匂いを感じつつも、山下澄人さんが『セザンヌの犬』について書いた文章の一部を引用したい(「わたしたちは生きている」「新潮」2024年10月号)。エコーチェンバーに繋がる過度な循環性を抑制するためもあって、コメントは無しで。

《(…)本書は夢そのものだった。しかしそんなバカな話があるだろうか。夢は寝て見るから「夢」なのだ。夢はそれを見る本体の意思とは別に、(…)寝て、「寝ましたね」となってようやく作動する箇所が「作る」。しかもそれは(聞いた話ではあるけれど)材料を捏造したりしない。生きて来た間に見たものだけ、体験したことがらだけを材料にする。》

《おそらく古谷は夢の仕組みに気がついた。というより、夢が製造される層の位置に、気がついた。とはいえ自動書記などというものではなく、正気のまま、ある意図を持ちつつのことだから、夢と違うのは見ていないものも自覚的に使っているということだ。そこは仕方がない。見たのか見ていないのかの判断は人間である限り古谷には不可能だ。不可能だからこそ古谷は、これまでに見て来た、聞いて来た、読んで来たもの、自身の体験としてすらして来た膨大なそれら先人の働きを、都度の参考、小さな機動装置にして、起動したらあとは自由だ。見ていないものを見て書いた。》