2024-09-01

⚫︎思いつきのメモ(1)。

当然のことだが、社会運動や政治にはさまざまな局面、様々なレイヤーがある。たとえば、うんと単純化して、異議申し立てのレイヤーがあり、合意形成のレイヤーがある、としてみる(もちろん、それ以外にも多くのレイヤーがある)。

異議申し立てのレイヤーでは、多くの人がその存在を知らない「問題」について、ここに問題があると広く知らしめなければならない。だから、このレイヤーにおける言葉や行動は妥協のない尖ったものである必要がある。良識ある人やマジョリティが不快を感じるくらいの「強さ」が必要だろうし、それが肯定される。ここでは「怒り」は抑制なく表明される。ゆえにトーンポリシングは悪である。

異議申し立てられた「問題」についての、解消や緩和や援助などの策を、社会制度や社会常識へと落とし込んでいく過程である合意形成のレイヤーでは、意義申立てのレイヤーとは別のスタイルが必要とされるだろう。それは、多くの人、多様な人に理解され、受け入れられることを目的とする行為であるから、柔軟性や鷹揚さも必要になる。時には(肉を切らせて骨を断つ、的な)大幅な妥協も避けられない。イメージとしては、美術館の名画にペンキをぶっかけるのが異議申し立てのレイヤーであるとすれば、化石燃料の使用制限に関する国際的な条約を作り、なるべく多くの国がそこに参加するように働きかける国連の職員や政治家が、合意形成のレイヤーにある。そこでは、心は怒りで燃え激っていたとしても、その相手と笑顔で握手したりハグしたりする必要がある場面もあるだろう。許しがたい奴の顔を立たせなければならない場面もあるだろう。怒りは表面上は抑制され、清濁合わせ持つ、様々な手練手管が要請される。

(この例だと、異議申し立てレイヤーは市民・民衆のレイヤーで、合意形成レイヤーは政治家や官僚など権力者のレイヤーのように思えるかもしれないが、たとえば「マンションの管理組合」における意思決定のような小さな単位で考えると、誰がどのレイヤーを担当するのかという役割分担はそんなに自明ではないし、一人で複数のレイヤーを跨ぐ必要がある場合もあるだろう。)

この二つのスタイルは混じり合わない。異議申し立てのレイヤーに合意形成のスタイルが混じると主張の角度が鈍ってしまうし、合意形成のレイヤーに異議申し立てのスタイルが混じると合意は形成されず交渉は失敗するだろう。つまり、異議申し立てのスタイルによって合意形成のスタイルを批判することや、その逆をすることはそもそも不毛なのだ。同じ「正義」を共有していたとしても、(一人の人が両方のレイヤーを行き来するしても)この二つのスタイルはあらかじめ相容れない。互いに緊張を保ったまま(距離をとりながらも刺激し合ったりしつつ)、混じり合わずに並走するしかないだろう。不毛な争いを避けるために、互いに相容れないことを知っておくのがいいのではないか。

(異議申し立てのレイヤーは青臭い理想主義であり、合意形成のレイヤーこそが大人の現実主義だ、というように考える人がいるが、そうではなく、それぞれのレイヤーには、それぞれに異なる存在意義があり、異なる局面における「現実的」な作用があるということだと思う。たとえば、基本的理念=思想の制作は、その理念がそのまま現実化することはないとしても、人々の個別の行動の刺激や指針となることで現実上の効果をもつだろう。)

そのほかにも、基礎的な理論形成のレイヤーとか、問題解決のための具体性のある政策(法律・制度・メカニズム)を創造するレイヤーとか、多数化工作のレイヤー(合意形成と重複するが「動員・プロパガンダ」のようなニュアンスを考えればまったく同じではないだろう)とか、(政党のような)集団を運営するレイヤーとか、ポスト争奪のレイヤーとか、さまざまなレイヤーがあり、レイヤーごとに異なる個別のスタイルがあるだろう。それぞれのスタイルごとに、望ましい表現や行動のあり方は異なるはずだろう。

(さまざまなレイヤーがあるのと同様に、さまざまなスケールがある。国際政治からマンションの管理組合まで、国の運営から仲良しサークルの意思決定まで。スケールごとに、レイヤーの絡み合い方が異なるだろう。)

⚫︎思いつきのメモ(2)。

ある特定の政治家(代議士)の名前は、その個人のあり方を指示するものではない。その下には、代議士本人(そして代議士の家柄)、秘書、弁護士、ブレーン、政党、地元の支持者たちの団体、利害関係団体、関連する省庁の役人たちなど、さまざまな政治的レイヤーがあり、その複合がある。政治家の名前は、その複合体の上にペタッと貼られた「キャラクター指標」のようなものだ。だが、人はしばしば、キャラクター的指標によって表現される複合体を、政治家個人の人格や資質、力量だと勘違いする。それは、ある複雑な複合体を縮約的に表現する記号として有効だという側面もあるが、一方、その複合体のありようを不透明化し、固定化させる。

そのような意味で、政治家は「人」ではなく、さまざまな政治的レイヤーのネットワークの結節点の上に貼り付けられたシールのようなものだ。大物政治家とは、そこに集約されるネットワークの大きさと深さとを表現する言葉で、だからその人自身が大人物である必要はない。そこにアクセスし、それを動かすことで、大きな範囲を深くまで動かすことのできる便利なスイッチでしかない。ただし、広範囲にわたって深い影響を与える結節点=スイッチは、それを利用しようとする人にとってとても便利で利用価値が高い。人・人格と混同されて不透明化されたネットワークは、一旦成立すると固定化され、維持され続け、たとえその人物が引退したとしても、その力は保持され続ける傾向にあるだろう。

政治家が持つ権力とは、たんに「国会議員」であることで与えられる制度的に定められた権力だけではなく、その背後にあって不透明化されたさまざまなレイヤーが織りなすネットワークによってもたらされる権力のことだ。だから、それが一定以上に拡大してしまえば、落選しても、引退しても、力はあり続ける。だが、政治家=人(人格・力量)によって代替表現されることで、ネットワークが不透明化し、固着化してしまうことは、(それを便利に利用可能な既得権者を除けば)社会的なボトルネックとなり、不公正でもあり、多くの人々にとつて明らかな不利益となる。

だからまず、ネットワークは透明化されなければならない。不透明であることで、政治家はそれを「自分の力」であるかのように主張すことができるし、実際に持っている力以上に自分を大きく見せることもできてしまう。そして次に、ネットワークが一定以上に拡大することを抑制するシステムが必要になる。ただひたすら、ネットワークの拡大と強固化だけに注力し、それによって引退後も力を持ち続けるような権力の怪物が生まれてしまうのを防ぐシステムが必要だろう。怪物への批判的言説、そこからの世論の高まりは、その怪物を「議員でなくする」ことはできても、社会的に築かれたネットワーク的権力そのものを破壊することはできない(「ペン」の力は限定的である)。ゆえに、そもそもその構築が可能でなくなるためのシステムを考案し、実装する必要がある。

(ネットワークの過剰な拡大を抑制する手っ取り早い方法は、議員の―-年齢制限ではなく―-任期制限を設けることだと思う。たとえば、三期12年議員を務めた人は、もう次の選挙には出られないとする。そうすれば、関係が固着することが防げるし、贈賄側も、そもそも12年しか権力を持てない奴に過剰に癒着しようとするインセンティブがなくなる。ただ権力が欲しいだけの野心家に対しても、政治家になろうと望むインセンティブを下げる効果がある。)

(12年しか権力を得られないので、ジバン、カンバン、カバンを世襲する「旨み」も薄くなるだろう。ただしこの場合、複数の議員を通じて持続することが可能な「地元の支援団体=ジバン」の権力が強くなりすぎてしまう可能性はあるかもしれない。)