2024-08-31

⚫︎家にいて、家から見える範囲にかんしては特に変わったことはない。しかし、せいぜい数百メートルくらいしか離れていない、普段からよく通る見知った場所で、川が氾濫して団地が水没していたり、駐車場に停められた車が水で流されていたり、車が立ち往生するほどに道路の水かさが増していたり、下半身のかなりの部分が水に浸かる感じで人が歩いていたりする映像を、テレビニュースの映像としてネットで見ることになった。

生まれてからずっと地元に住んでいたのではなく、人生の半分近くは八王子にいたのだが、実家はずっと地元にあった。それでも、つい最近までは一度も水害について気にかけたことはなかった。すぐ近くに川はあるが、普段の水量に対して河岸の窪みのは十分以上にゆったり大きく、台風が来ると河岸の草が水で薙ぎ倒されはしても、水が溢れるとはとても思えなかった。地元の水害のニュースをみた記憶もない。

初めてやばいと思ったのが3年前の台風で、川の水は今にも溢れそうなくらいの勢いで、実際、少し上流で一部河岸が決壊した。その時は、雨が弱くなる明け方までずっと、30分ごとに更新される、川の水量を示す表とグラフをネットで見ていて、あー、また増えてきた、やばいなあ、とか思っていた。今回の雨で氾濫してしまったアトリエ近くの川は、3年前の時も周囲に避難勧告が出るくらい危険な状態だったが、3年前はなんとか持ちこたえた。だが今回は溢れてしまった。

3年をおいて再び、ということは、今後も、3年に一度くらいは、ギリギリのやばい感じになるということなのだろう。身近な、リアルな危機としての気候変動。

⚫︎運動は、身体(とりあえずの運動・計算主体)と、外的現実(空間・取り柄る時間のスケールなど)と、その両者を等しく制御する重力をはじめとする物理法則という三つの要素の複雑な絡み合いの中で生起する。運動主体が事前に持つと想定される技量・フォームは、外的現実との接触面の変化に対応してその都度計算し直されて出力される(その都度で異なる顕在的フォームになる)。ここで、結果として出力されたフォーム(形式)だけを切り出して検討しても、その出力をもたらした計算過程を知ることはできない。とはいえ、運動の際に、新しい・目覚ましい計算過程が成立した場合、そこには新しい・目覚ましいフォーム(形式)が現れているはずだ、とは言える。逆にいえば、新しい・目覚ましいフォームがあるところには、新しい・目覚ましい計算過程があるのだと考えられる。新しい・目覚ましい計算過程がそこにあることを「感じさせる」からこそ、新しい・目覚ましいファームを見ることは、それ自体が喜びであり刺激であるのだ。