2024-08-12

⚫︎すっかり夏休みモードで遊び回っている。遊び回っていると言っても、小学生みたいに自転車で近所を走り回っているだけだが。考えてみれば、小学生の時もまったく同じことをやっていた。小学生の頃よりも多少は行動範囲が広がったくらいの違いだ。

(ちょっと前に、自転車で少し走るだけですごく息が切れて、こんなに急に体力が落ちるものなのか、心臓とか肺とかどこかが悪くなっているのではないかと思ったのだが、調べてみたら、自転車のタイヤの空気が大分少なくっていて、空気をちゃんと入れたらびっくりするくらいペダルが軽くなって快調で、え、こんなことなの、と思った。)

⚫︎読んでいる本。大江健三郎の本は帯にある通りノーベル文学賞受賞の頃に買ったはずだから30年経つ。紙の本は、持ち続けてさえいれば、昨日買ったものでも高校生の頃に買ったもので同じ感じで読める。持続性と安定性にとても優れたメディアだ。ただし、持ち続けるにはスペースが必要なことと、必要な本を探し出すのが大変だというデメリットがある。

夏になるとアンリ・ボスコを読みたくなる。大江健三郎の複雑な文章に対して、ボスコの文章(ボスコを翻訳した天沢退二郎の文章)はとてもシンプルだが、大江の文章を読むよりも時間がかかるし、頭にかかる負荷も大きい。

⚫︎文を読むには入力と出力があり、そしてそれはややズレを持ちつつも同時に起こる。書かれたことを受け取るということには、文を読むということ(入力)と、読んだことによって生まれる身体変化(出力)と、そこで自分に起きた身体変化を自分自身で受け止める(味わう・理解する)という過程(入力-出力-入力)がある。意味を受け取るというだけのことでも、その意味が頭の中で構成される過程や段取りがあり、結果として「同じ意味」に着地するとしても、構成される過程が異なれば、そこには異なる「読書経験」があることになる。

本を読むことが、そこに書かれていることの意味にも、テキストそのものの構造や組成にも還元されないのは、その「意味」は、それを読む「わたしの脳-身体」の上で構成されるしかなく、またそこで構成された「意味=身体状態」を、それが発生している現場そのものである「わたし」が味わう、または理解するという過程があって初めて成り立つからではないか。その三つ目の再-入力の過程でようやく、「テキストそのもの」からも「わたしの身体状態」からも切り離された「意味(感覚)」が発生するのではないか。

(言語という縮減され抽象化たものの中に込められた微かな偏差や震えを、レコード針が拾う細かな振動を増幅させるアンプのように増幅させ、そしてアンプが増幅させた振動を具体的な音へと変換するスピーカーのように意味や感覚としてその振動を構成し、さらにはスピーカーの前にいるリスナーのように、いったん外的になもとして切り離された意味や感覚を再度入力して吟味する。そのすべてを自分の身体を用いて行う。本を、少なくとも小説を、読むというのはそういうことではないか。)