山本現代の小林耕平展について、もうちょっと)
●昨日、おとといと、小林耕平の作品について「装置」という書き方をしたけど、それはいわゆる体験型の装置とは違っている。完結していて、それを外から観賞するような作品ではないとしても、実際にそれに触れたり、使用したりするというわけでもない。それは、物と空間と映像を用いた思考の記述であり、実践への誘いであって、観客はそれを観たり、読んだりするという形でそれとかかわる。それはおそらく、空間化され時間化された本のようなものであり、体感されるというよりも「読まれる」と言うべきものだろうと思う。だから、感覚を鋭敏にして、そこで起きていることを最大限に感じ取ろうとするだけでは足りない。
しかし、読むということは、意味を読み取るということでないし、解釈や位置づけをするということでもない。「読む」という意味は、そこにあるものから受け取るということだけでなく、そこにあるものに対して働きかけることが必要だ、というような意味だ。読む側の能動的な介入が要請されているということ。
意味とも解釈とも違う「読み」とは具体的にどんなことなのか。おそらくそれはアナロジーをはたらかせるということではないか。例えば、プラスティック製の管のまわりにむき出しのマットが巻かれて、それらがベルトによって接合されている装置があり、それが身体だと見立てられているとする。つまりそこでは「身体」という意味は既に与えられている。そのときに何が読まれるべきだというのか。それは、その装置を組み立てている物たちの素材やテクスチャーの接合関係と、自身の身体を形作るものたちの接合関係との間の「対応関係」を想定してみることであり、その想定された対応関係をもとにして、装置を自身の身体へ、自身の身体を装置へと変換することを試みることではないかと思う。ここで、ベルトは両腕であり、マットは腰であり、管は背骨であり、腰が両腕によって抱えられているのだ、というような言葉が小林耕平によってビデオ映像として与えられている。ここで重要なのは、ベルトは両腕を「意味し」、マットは腰を「意味する」のではなくて、ベルトは両腕「であり」、マットは腰「である」ということだ。この時にわれわれは、自身の腕をベルトとして把握し、自身の腰をマットとして把握しようと努力する。あるいは、ベルトを自身の腕として、マットを自身の腰として、把握しようとする。意味の変換(交換)だけではなく、諸知覚、諸感覚、諸実感、諸記憶、諸操作感の間の変換(交換)が要請されている(たとえば、自身の身体を幅ゼロの数学的な線として把握できるのか、というようなこと)。ぼくはここで「読む」ということを、そのような努力という意味で使っている。読む=努力する=実践する。そして、装置=作品は、この努力への呼びかけ(誘い)であり、同時にこの努力を遂行するための手がかりや手助け、あるいは欲望のフックのようなもの、でもあろう。
もちろん観客は、これらの装置をユニークなオブジェとして楽しむことも出来るし、映像を、風変わりなパフォーマンス、あるいは非常に高度な多重的フレー操作を伴う映像作品として楽しみ、観賞し、体感することも出来る。それだけを取り出してみても、充分に面白く、刺激的な作品だと言える。観客がそこまでで引き返す自由を作品は否定しない。しかし、そこだけで引き返してしまってはもったいない。作品は、これらの装置や映像によって示される使用法を真に受け、ベタに実践してみることをこそ、誘っているのだと思う。
繰り返すが、この装置たちは、たんに観賞だけのものではないというだけでなく、体感するものでさえない。体感という言葉にはどこかまだ、装置任せの受動的なニュアンスがある。そうではなく、それぞれが自ら、読む=努力する=実践することを誘う装置であり、そのため地図や案内であるのだと、ぼくは思う。作品の意味(あるいは無意味)は、それぞれの観客のなかで、そのような努力の過程を通して現れるしかない。それはつまり、これらの作品を観るということは、それぞれが自分の作品をつくるというのと同等の身体支出を要求されているということでもあるのではないかと思う。