(昨日のつづき、山本現代の小林耕平展について)
●小林耕平の装置は伊藤亜紗のテキストを受ける形で制作されている(「タ・イ・ム・マ・シ・ン」「殺・人・兵・器」)。しかし当然、テキストには含まれない要素も加わっている。テキストでは、生きたままでなされる死の疑似体験は、左右の消去を端緒に追究され、展開される。例えばそれは、左右と前後の違いを無効化する円柱形、あるいは十字柱として自らの身体を考えるという方向に発展する。
●小林耕平はここに、「折りたたむ」という要素を付け加えることでより多様な展開を可能にする。球体である地球を世界地図として平面に変換することで、世界を折りたたむという操作が可能になる。だが一方、べニア板に描かれた(たたまれた)タオルは、平面であるから開くことが出来ない。あるいは、折りたたみベッドを折りたたむ(また開く)時、人は腰を折りたたまなければならない。折りたたむことの様々な対が、アナロジーとして人体の中心軸である「腰」を召喚する。そして装置の次元においては、テキストにおける左右の消失以上に、中心軸としての「腰」の無効化が問題となっている(折りたたみ式ベッドの空箱に二つのフラフープがセットされた装置においては、前後左右の相殺、ペア化、折りたたむものと折りたたまれるものの相互性など、主要な主題が集約されている)。
●「折りたたむ」主題は、身体のアナロジーとして「腰」へと収斂されると同時に、「腰」という中心軸を、多様な折りたたむものたちへと拡散し、身体を非中心化へと開いてゆくはたらきももつ。これはある意味左右の停止よりも過激なことだと言える。そして、「折りたたむ」は渦状に「巻き込む(巻き取る)」へと変化、発展し、身体の円柱化(前後左右の消失)へも再度結びつく。巻き取られたもの(バームクーヘンのようにロールされた平面)とは、無数の折りたたみが滑らかに織り込まれた状態であり、そこには連続化された無数の腰が織り込まれているとも言える。だから、巻き込まれたロール状の平面による円柱形の身体は、前後左右が消失し、かつ、腰の無数化によって中心としての腰を無化し、そしてさらに中心に空洞をもつチューブでもある。それはたとえば、巻き込まれたエアーキャップの中心にデッキブラシが通された装置として示されている。
巻き込まれたエアーキャップの装置(身体)は、身体全体を「腰化」することで脱中心化される(無数の腰と空洞だけで出来た身体)だけでなく、巻き込まれた無数のプチプチに内包される空気によって、あらゆる欲望を緩衝することで、欲望をもたない完全な身体とされる。つまりそれは存在する死のようなものになる。
だがしかし、巻き取られたものにはそれでも「右巻き」と「左巻き」がある。テキストには、左右とは身体を基準とするしかないものだと書かれていたが、では、右巻きと左巻きとの違いは身体に準拠すると言えるのだろうかという新たな問いが、この装置によって浮かび上がる。右巻きのロールは、逆さにしてみれば左巻きのロールとなる。つまり、前後左右と言うときは、前後を無化すれば左右も無化される。だが、右巻き、左巻きということになれば、今度は上下(あるいは裏表)の無化が問題になる。だとすれば、円柱形の身体では左右は完全には無化されてないことになる。
●そこでおそらく球形が要請され、バランスボールの上下に板がかぶせられたような装置が登場する。球形は確かに上下も前後も無化することによって左右を消失させるかもしれない。だがそれでは「折りたたみ」が消えてしまう。つまり、自らの身体をバランスボールへと変換して把握するときの、とっかかりというか、経路、媒介となるもの(折りたたむもの=腰)がなくなってしまう。ここで再び、地球を世界地図へと変換するのと同様の変換が求められる。そこで召喚されるのが箱入りのティッシュペーパーということになる。ティッシュペーパーは、二つ折りになった一枚が互い違いに無数に重ねられていることによって、一枚を抜き出すとそれにつられて次の一枚の半分が顔を出す。もしこのティッシュペーパーの折りたたみが無限に折り重ねられているとすれば、無限の腰をもつロール状の平面(身体)と同等のものとなり、かつ、右巻きでも左巻きでもないものとなる。よって、バランスボールとティッシュペーパーのセットが、完全化された、存在していると同時に死んでもいるような身体として想定さているのではないだろうか。
●前にも書いたけど、ここで問題になっているのは、意味や解釈や理解の次元にあるものではない。ベタに、「左右を消失させること」や「自らの身体をバランスボール+ティッシュのようなものとして把握すること」という(観賞ではなく)実践が問題であり、それが「死の疑似体験」たり得るかということが問われていると、ぼくは思う。展示されている装置や映像は、そのための地図、経路、順路のようなものであろう。だから作品というより、ワークショップのようなものであり、修行の指南書のようなものであり、デートの誘いのようなものであり、点在する巡礼地のようなものなのだと思う。そしてそれはマニュアルではなく、虫食いだらけの暗号地図のようなものだから、空いている隙間は個々の実践者が自身の創意と飛躍によって埋めるしかないようなものなのだと思う。
●もちろん、小林耕平の装置群は、このような単線的な展開をみせるのではない。「折りたたむ」や「巻き取る」、あるいは「裏表」という主題のどれをとってみても、上記したこととは別の展開を追うことも出来る。より豊かな分岐路があり、その分岐路同志の複雑な絡み合いがみられる。だから、完全な身体としてのバランスボール(左右の消失)に行き着くことが、必ずしも目的というわけではないはず。むしろ、絡み合う分岐路に迷い込むことによって、思いがけない飛躍を得ることが期待されていると思う。