白金高輪山本現代で、小林耕平展。
http://yamamotogendai.org/japanese/exhibition/index.html
とにかく、たくさんの刺激が会場にごろごろ転がっていて、まず「うわー」と思う。軽く混乱する。これをいっぺんに受け取るのは無理だから、少しずつ、受け取れそうなものからはじめようと、自分を落ち着かせる。二時間以上は会場にいたと思うけど、ほんの少しのことしか受取れていないように思う。この展示は、観る=経験するだけでは足りなくて、これらの装置を自分にインストールして、自分のなかで作動させてみないといけない。できれは本のようにして持ち帰って身近に置いておいて、じっくり読み込んだり、折に触れてページをめくったりするようなことが出来ればと思う。せめて映像だけでも持ち帰れないものかと思うのだが、ぼくには宝くじでも当たらなければ買えそうのない値段だったりする。
会場には、日用品を組み合わせてつくられた奇妙なオブジェのような装置(と言うべきなのだと思う)が雑然と置かれている。これはオブジェとして観てもユニークなものだが、作動させるものとしての装置なのだと思う。一面の壁には、プロジェクターによってこの装置の使用説明をする映像が流れている。そしてまた他の面に、小林耕平と山形育弘による、使用例としてのデモンストレーション映像が流れるモニターが設置されている。このほかにも、画廊入口と、奥の部屋とに、映像作品として独立した(?)作品を流すモニターが置かれる。この四つの映像の音声は混じり合い、時に聞き取りにくく、装置が雑然と置かれた会場の印象をさらに雑然としたものにしている。
これらの装置は伊藤亜紗のテキストをもとに作られている。テキストは、生きたままで自分の死を経験する可能性について書かれている。例えば、左右の区別は自身の身体を基準とするしかない。だとすれば、左右という観念を消してしまうことが出来れば、身体の消失=死を経験できるのではないか、などということが書かれている。小林耕平の装置は、このテキストの主題を忠実になぞるのではなく、テキストに書かれた様々な要素を拾い出して、独自に展開させるものとしてつくられている。テキストがあり、テキストから発し、発展した装置があり、その装置の使用例としてのデモンストレーション映像がある。だからここには、小林耕平の実践があるというだけではなく、伊藤亜紗の実践を山形育弘の実践へと変換する、小林耕平の装置がある、と言える。
観客はさしあたり、自身を山形育弘の位置において、実践をイメージしてみる。だが、映像の山形育弘は、目の前に装置があるだけではなく、尊師のように教えを説く小林耕平と対面し、しかもカメラが回っているという状況でこれらの装置と対しているので、いわば切迫した場に置かれている。彼はその場で即、身体や頭を使ったなにがしかの反応を返すことを強いられている。観客にはそのような切迫はない。むしろその真逆の状況に置かれている。雑然と置かれた装置と様々な音の交錯する空間で、観客は何かに集中することを殺がれている。一つのことに集中しようとしてもすぐ別の何かが目に入り、耳に入り、注意は空間のあちこちへと散らばってゆく。だからおそらく、この会場で作品を観る観客がしていることは、山形育弘のような実践を行うというより、実践のための装置をインストールしている感じに近いのではないか。観客は、様々な考えが次々に襲われることで、まったく考えがまとまらないような状態で、結果としてほとんど呆けたように、その場で途方に暮れる。それはある意味、「逆切迫」のような追い詰められた状態なのかもしれない。状況の切迫に後押しされない時、装置の効果(「気づき」のような何か)は、その場で起こるかもしれないし、まったく別の場所でふいに起こるかもしれない。
会場には伊藤亜紗によるテキストも置かれている。当然だが、このテキストは小林耕平による装置を説明するものではない。むしろ、置かれた装置こそがこのテキストの一つの説明となっている。だから観客は、このテキストから、小林耕平のつくりだしたものとは異なる別の読みとして、また別の経路の実践のための装置を考えることもできる。その時観客は、山形育弘の位置から小林耕平の位置に移動する。
これらの装置は、オブジェとして観ても魅力的なものである。観客は、様々な刺激が一挙に襲い掛かってくる混乱(それは結果として、凪のような呆けた状態でもある)のなかで、急流のなかで浮き輪をつかむように、オブジェとしての面白さを愛でることによって一時避難し、にやっと微笑、ほっと息をつくことも許されている。これらの装置の本来の意義はオブジェとしての面白さではないとはいえ、それが結果としてオブジェとしての面白さを有していることの意味は小さくないと思う。
●とにかくむちゃくちゃおもしろい。出来れば何度か足を運びたい。