2024-08-13

⚫︎『ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ)をDVDで。これも何十年ぶりで観た。『エル・スール』が、演出によって完璧に制御されている映画だとすると、「ミツバチ…」はそこまで厳しい制御はなく、もっとゆるい感じで、しかし至る所で奇跡が起きてしまっているという感じか。構想の段階というか、この映画がまだ「頭の中」にある段階では、ごくごくささやかなものだっただろうが、撮影してみたらとんでもないものになってしまった、のではないか。

まずすごいのが、アナ・トレントの眼なのだと思った。顔の面積に比べて例外的に大きな目と黒い瞳が、何かを凝視している。我々は凝視する眼を見ている。観客は、何かを凝視しようとするその働きそのものというか、「凝視する魂」のようなものを見ている。彼女が幼いということは、彼女の存在そのものが「凝視する魂」の体現であって、それ以外の要素がまだ希薄であるということではないか。

彼女はヤバいものの方に、端的に「死」の方に惹かれていく。姉妹で線路に耳を当てる場面。「レールの響きから列車が近づいてくることを知ることができる」という事実を共有する姉妹。ここに、二人の仲の良さと共感が現れている。しかし、列車の接近を確認して線路から離れる姉に対して、アナは何かに魅入られたように線路に傍に居続ける。危険を感じた姉が「アナ ! 」と大声で叫ぶ。その声でアナはようやく我にかえって線路から離れる。この、なんということもないような場面に、姉妹の関係の密接さと同時に、相反する魂のようなものも表現されている。

猫の首を絞めてみたり、死んだふりをして妹を脅かそうとする姉。姉たちの遊びに入っていけない妹。ここにあるのは、妹(アナ)の孤独であると同時に、姉から離反しようとする(自律しようとする)魂の働きであろう。姉の知ったかぶり、姉の意地悪さ、姉の挑発によって姉から離れるのではないと思う。それはむしろ日常であり、姉との親密な関係の一側面だろう。そうではなく、接近する列車の方に惹かれていくようにして、妹は姉から離れて別のゾーンに入っていく。

(ここには、自分から離れていく妹を見る、姉の孤独もある。)

(負傷した脱走兵(?)に渡したはずのオルゴール付き懐中時計を父が持っていることをアナが知る朝食の場面。ここでは何かを飲んでいるカフェオレボウルのようなもので隠されて、アナの右目のみが画面に映る。この右目の表情だけで、彼女が何かを「察した」ことが見てとれ、そして次の父親の顔のカットで、父が「アナが何かを察した」ことを「察する」、そしてそのことを、観客が察することができる。この場面がすご過ぎた。)

(『エル・スール』にも『ミツバチのささやき』にも、子供が生育する環境の基本として親夫婦の不和がある。前者では、その中での父-娘の親密さと離反とがあり、後者では、子供と親とは既に距離があり、その中での姉妹の親密さと離反がある。)

何かを「凝視する魂」が見ようとしているものは、通常の生活空間の中では見えないものであり、その見えないものは、死の危険のすぐ傍にまで行かなければ見ることのできないものだ。この、無防備に危うい魂のあり方こそを、我々はこの映画に見ているのではないかと思った。