●『ボトルネック』(米澤穂信)。米澤穂信の小説の細部はいつも貧しい。だから、読んでいて常にどこか物足りない感じを覚える。しかし、にも関わらず、最後まで読むと、必ずその不満足を補うほどの、突き抜けた何かが示される。おそらく、自分の持っている技術や事前の構想を突き抜ける「何か」が出て来ることを、自らの作品に対する最低限クリアすべき閾としているのだろう。そしてそれがその作品固有の「質」となる。『ボトルネック』も、その点で他の作品とかわらない。(それは、他の作品と「同じような作品だ」ということではなく、他の作品同様、この作品固有の「質」を獲得するところまで突き抜けている、ということで、だからこの作品は、他とは異なる「この作品」なのだ。)
しかし、この作品の細部の貧しさは、いつも以上で、ほとんど骨組みだけで出来ているという印象さえもつ。(でも、このことは、「純文学作家」ではない職業作家であるこの作家の、「読み易さ」への配慮とも言えるかもしれない。)ミステリではないにも関わらず、この作家はミステリ的にしか小説を構想できないのだなあ、という限界のようなものさえ、感じられる。この小説はあきらかにライトノベル的なもの、キャラ的なものを消費する男の子の主体(「キョン」的主体)に対する強いアンチとして構想されているように思う。そしてその徹底ぶりに息をのむと同時に、何かに対するアンチ(批判)だけで小説をつくるのは、やはりどこか間違っているのではないか、と感じさせもする。この主人公は、自分が生きるための「支え」となるもののすべてを、残酷な(他ならぬ)「作家」の手によって剥奪される。そしてその剥奪が、まるでミステリで事件が解決される過程のように、とても理知的に、理路整然と行われることが、そのダメージをより徹底させている。しかし、この小説を成り立たせているのは、世界からも、そして「作家」からも見放されたようなこの主人公に、最後までつき合って、行動を共にする「姉」の存在であろう。主人公は、自らの生きる「支え」の全てを代償にすることで、姉という存在、姉との関係を手に入れる。姉は、その「知」によって主人公を徹底的に追いつめるが、しかし姉は、(あきらかに「異物」である)主人公に最後まで付き合い、主人公のことを常に気にかけている、知と愛(親しさ)とを同時にもった存在なのだ。(姉による、主人公やノゾミに対する、「知」や「愛」の行使は、利害関係にもとづくものではなく、それ自身の発露としてある。これがこの小説のほとんど唯一のポジティブな要素であろう。)この小説で示されているのは、主人公を救い得る可能性があるのは、例えば「ノゾミ」のような幻影ではなく(「ノゾミ」は決して「望み」ではない)、幻影を幻影として認識する「知」でしかないということだろう。しかし主人公は、姉への羨望(嫉妬)によって、このかけがえのない関係を自ら捨ててしまい、まさに全てを失う。しかしこのラストは決して絶望的なだけではないし、ただ(ノゾミの、あるいは作家の)「悪意」にだけもとづくものではない。すべては「ここから」しかはじまらないことこそが、告げられているのではないか。姉に対して「羨ましい」という言葉を吐くことの出来た主人公は、既に「キョン」的主体から一歩踏み出しているのではないか。(このように「読む」ことは、ちょっとウエット過ぎるだろうか。でも、十代の時にこの小説を読んでいればなあ、と思うのだ。)最後まで読むことで、途中、この作家の限界のようにも感じられた「ミステリ的にしか小説を構想出来ない」ことが、逆に強みなのかもしれないとさえ、思えてくる。
●『ボトルネック』を書いた米澤穂信が、〈小市民〉シリーズの次の作品を、どのように書くのかとても楽しみだ。