オルセー美術館展、中村宏・図画事件、MOTアニュアル「等身大の約束

東京都美術館オルセー美術館展、東京都現代美術館で、中村宏・図画事件、MOTアニュアル「等身大の約束」、MOTコレクション・1940-80年代の美術、を観た。
●「オルセー美術館展」。早起きして、ラッシュの電車に乗って、開館と同時に東京都美術館に着いたのに、既に凄く混んでいて驚くとともにうんざりする。なんでこんな大したこともない展覧会に、平日の朝から多くの人が集まるのかがよく分らない。(確かに、マネの「ベルト・モリゾ」は素晴らしいのだが、それ以外には大した目玉も無く、あくまでマニアックでこじんまりとした展示なのだ。)入場料を取って、まるで絵を観る環境じゃないところに人を詰め込んで平気でいて、それで入場者数の多さをもって「成功」とするとするなら、それはどう考えてもおかしいと思う。
マネの「ベルト・モリゾ」の隣りに、ラトゥールの「バティニョールのアトリエ」を置くのは、ちょっと酷なように思う。ラトゥールは決して悪い画家ではないし、レンブラントをやわらかく通俗化したような画風は大変に趣味のよいものだと思うけど、「黒」の冴えのあまりに素晴らしいマネの隣りに置かれると、その形態、色彩のヌルさの方が強く感じられてしまう。ラトゥールもマネも、どちらも映像的な絵だと思うけど、マネの「映像」が、キャンバスと油絵の具によってしか実現されないようなものなのに対して、ラトゥールは、もしかすると写真や映画の方がよりよく実現されるのではないかと感じられてしまうイメージしか生み出せていない。マネの黒(というか、全ての筆致)が、どれ一つをとっても画面全体のあらゆる部分との緊張関係をかたちづくっているのに対し、ラトゥールの黒は、しばしば「たんに黒く塗った」という感じになってしまっている。特に、画面左上の、静物が置かれている部分の背景の黒は、画面全体の秩序から切り離された、ただの黒い絵の具(のベタ塗り)にしかみえない。
マネの絵の近くに置かれていて、その存在によってマネの絵のあり方を頑固に非難しているように見えるのがセザンヌの「ギュスターブ・ジェフロア」だろう。マネの絵、軽やかに舞うようでいながら、その全てが画面全体のあらゆる部分との関係のなかで正確に置かれている筆致と、その筆致の奇跡的な集積によって世界のほんの一瞬の表情が捉えられ、固定されているような(つまり映像的な)作品に対し、セザンヌの絵は、頑固で不器用な筆致を重ね、画面全体をギシギシと軋ませ、瞬間とか現在とかいうような、時間のなかで現前するものとは全く異なる何か、常に現在からこぼれ落ちつつも、それによってこそ「現在」が可能になっているような何かを捉えようとする、美しさや趣味の良さとは全く無縁であるような作品なのだ。この二点が、コーナーを挟んでとても近くに展示されていることで、この一画は、異様なまでの緊張を含んだ空間になっていた。
●「中村宏・図画事件」。初期のルポルタージュ絵画は、いわゆる社会主義リアリズムなどと同様、具体的な社会変革の運動の一環として描かれたものであろう。しかし、それは容易に、幻想的、内的な画風へとかわってゆく。この点は、現在から見るとわかりづらいように思う。社会変革への希望が断たれ、それに敗北したからこそ、政治から幻想(情念)へと移行したというのは物語としては分りやすいが、それは描かれた年代からみて、正確ではないように思う。基本的に、政治や社会変革への情熱が最も高まった時こそ、幻想的、内的な表現のポテンシャルが高くなる。これは、政治や社会変革の情熱(と、その行動)そのものが、実は内的な情念の「表現」でしかなかったのではないか、という疑いを生じさせる。政治的運動と、いわゆるアングラ的な表象との相性の良さは、そのような事実を示しているとぼくには思われる。そもそも、ルポルタージュ絵画の作品からして、シュールレアリスム的な空間構造によって成り立っていて、それは社会的な事件を表象し、人々にそれを知らしめるというよりも、むしろ人々の感情に訴えかけるような側面が強かった。
六十年代の幻想的な画風において、社会変革(革命)という情熱は、少女という超越的な形象にとってかわられる。少女と言う形象によって「革命」が担保されるというのは、例えば吉本隆明の詩などを思い起こさせるものだ。繰り返し描かれる汽車(機械、蒸気機関)というイメージは、ノスタルジーを匂わせつつ、強い力によって前へ進んでゆくものとして未来を感じさせもするし、その力は、社会を変革させてゆく民衆の力であると同時に、権力のもつ圧倒的な力でもあろう。そして、汽車の形態は容易に男根を思わせる。石炭が発する熱、それによって起こる力強いの回転運動は、人々を運動へと不可避的に向かわせる内的な情念であり、同時に自分ではとても制御し切れない強い性欲でもある。熱を、無限の回転運動へと変換させる「機械(機関)」というのはつまり、無限に繰り返される無益な(生産性のない)マスターベーションを想起させるものでもある。男根の形態を持つ汽車(機械)に乗った多数の一つ目の少女(というより「女学生」)たちは、革命を担保するものとして、決して汚されることのない超越的な存在でありつつ、マスターベーションの対象(ネタ)として、繰り返し、無限に汚されつづける存在でもある。つまり、この幻想の女学生たちこそ、これらの汽車=機械を運動させる燃料であるのだ。これらの形象たちの組み合わせの図式は、あまりに分りやすく、分かりやす過ぎるという点ではかぎりなく退屈だが、しかしこれらの作品には、社会変革への希望と、内的な情念と、決して満たされることのない性欲とが渾然一体となった、ある混沌とした「力」の感触が、ガリガリとした粗っぽい摩擦とともに生々しく感じられるような「質」があることは確かだと思われる。
ただ、七十年代以降の作品は、燃料(つまり「少女」という超越性の効力)の切れた後の機関だけが残されたという感じで、ぼくには退屈でしかなかった。
MOTアニュアル「等身大の約束」。あまりに下らないので三秒で通り抜けた(誇張)。最近の「現代美術」って、美術としてあるべき最低限の。形式や、形態や、空間に対する緊張感というのが全くなくて、つまり作品としての「質」をつくり出そうという気持ちがはじめからないとしか思えなくて、ただ、デパートの売り場以下の出来の悪いディスプレイと、観光地のお土産物レベルの工芸品と、お絵描きレベルのペイントと、テレビのニュースショーレベルの社会性と、「詩とメルヘン」レベルの「私語り」があるばかりなのだ。まったくバカバカしい。(加藤泉という作家は、前はもっと面白い作品をつくっていたはずだけど、今の作品は全然ダメだと思う。)
●「MOTコレクション・1940-80年代の美術」。MOTアニュアルにはあきれたが、この展示には怒りをおぼえた。この展示をした人は、一体「作品」というものをなんだと思っているのだろうか。展示の都合で(キュレーターの意図次第で)、いくらでも好き勝手にあつかえるパーツくらいにしか考えていないのではないだろうか。例えば、何故ブライス・マーデンのペインティングが、あんな薄暗い部屋で、ぼやっとした光のもとで(しかもスポットライトみたいで、画面に均質に光が当たっていない)展示されなければいけないのか。駒井哲郎や村上友晴の作品が、細部もよく見えないような暗がりに展示されなければならないのか。こんなに安っぽい「演出」に、作品が従わされてよいのだろうか。こんなに「作品」を軽視した展示が許されるのだろうか。宮島達夫やポルタンスキーの作品は、その作品自体がある程度の暗闇を必要としているのだから、それはそれでよいだろうが、それらの作品とブライス・マーデンのものとは違うことは明らかではないだろうか。もっと普通に、その作品がもっともよく見えるような配慮で展示するのが当然なのではないだろうか。