08/02/14

●一昨日の日記に、《唐突に、今までとはまったく違う感じの絵を油絵の具で描きはじめ》たということを書いたのだが、描きすすめてゆくと、(久しぶりに使った油絵の具の新鮮さは持続しているものの)やはり、そんなに違ってない感じになってくる。まあ、自分が描いているのだから当然なのだか。(作品をつくるということは、繰り返し回帰してくる「自分」に、その都度新鮮に対することが出来るか、ということでもある。飽きても取り替えのきかない「自分」を、どうやってその都度新鮮なものとしてたちあげ直すことが出来るか、というか。)
自分の作品を眺めていると、学生の頃の二十年くらい前と、やってることは基本的には全然変わっていないのだなあという気もしてくる。まあ、この二十年で多少は上手くなっているはずで、その分、やりたいことに少しは近づいているとは思うのだけど。しかしその「進歩(?)」の具合は、二十年という時間の長さにしてはどうなのかとも思う。二十年もかかってこんなものか、と。これは進歩などというものではなくて、若い頃はいろいろとあった余計な色気が後退して、やりたいことのブレが少なくなった、やりたいことをずうずうしくやれるようになった、ということでしかないのかも。そう考えると、人が一生の間でやれることの少なさを感じる。芸術は長く、人生は短い、という紋切り型は、リアルなのだった。
だとすると、もっと勤勉にやらなくては、ということになるのだが、根が勤勉ではないので、外が晴れて、わりとあたたかいと、すくに散歩に出てしまうのだった。花粉の時期になると、そうそう散歩もしていられなくなるし。
●最近はすっかり「牛」に魅了されていて、散歩に出るとついつい大きな牛舎の方へ足が向いてしまう。一見、無気力な家畜で、ただだらだらと餌を食っては糞を垂れ流しているだけにみえる牛たちも、ちょっと眺めているだけで、生得的な性格に違いがあることがみえてくる。他の牛の食っている餌にまで首をつっこんで横取りしようとする強引な奴もいれば、なにかと遠慮ぎみで、一歩引いているような奴もいる。足音に敏感で、近づくとすぐに振り向く奴もいれば、我関せずで、まるでこちらを気にしない奴もいる。繰り返し回帰する性格としての「私」。