●RYOZAN PARK巣鴨で保坂和志の小説的思考塾vol.7(以下は、ぼくの主観や解釈が---おそらく勘違いなども---入っていて、正確なレポートではないです)。
今回は、いくつかの実例が示されながら、けっこう実践的なことが語られた。たとえば、村上春樹の「ウィズ・ザ・ビートルズ」(「文學界」八月号)という小説の一部が引用され(僕はこれを読んでいないが)、その細部が批判的に検討される。1964年に高校生だった語り手の《僕》は、学校の廊下で「ウィズ・ザ・ビートルズ」というLPレコードを《大事そうに胸に抱えてい》る《彼女》とすれ違う。そして《僕》の記憶ではそのレコードは、日本国内盤でも米国盤でもなく、英国のオリジナル盤であることが《はっきりしている》、と書かれる。
しかし、まず第一に、1964年当時、日本ではロックは一般的にシングルレコードによって受容されていて、アルバムとして聴かれるのは一般的でなかった。さらに、現在と違って「輸入盤」が普通に出回っているような環境ではなかった。湯浅学によれば、その頃、「ウィズ・ザ・ビートルズ」のオリジナル盤など、日本には十枚もなかったのではないか、と。だから、普通の高校生であるはずの《彼女》が、学校の廊下で「ウィズ・ザ・ビートルズ」を大事そうに胸に抱えている---そしてそれをそれとして《僕》がすぐに理解する---というシチュエーションはちょっとありえないだろう、と。
(若い作家が知らないで書いてしまうならともかく、村上春樹はこの時代に生きているのだから、知っているはずなのだと思うのだが。)
つまり村上春樹の小説において、1964年という時代も、「ウィズ・ザ・ビートルズ」というアルバムも、ビートルズの存在も、薄っぺらなイメージであり、小説を組み立てるために使える「都合のよい駒」でしかなく、それ自体として尊重されていない、と。ほかにもこの小説には、精神疾患にかんして、「今の情報を当時の人が知っていたかのように」書いてしまっている部分がある。当時の人が、「現代の人がもつ感覚による言動」を示してしまっている、と(当時は今よりもっと深刻なタブーであり、故に差別や偏見も根深く、大きかったはず)。
小説にとって、時代背景も、風景も、人物も、作者にとっての「都合のよい駒」であってはならず、それ自体として自律した厚みをもっていなければならないはずだ、と。そのような「それ自体として自律した厚み」は、小説を書くときの助けにもなる(細部が豊かになり、リアリティが増す)が、都合よく操作できない異物でもありえる。それが重要だ、と。
●村上春樹だけでなく、ほかにも、日本の現代作品や作家が個別にとりあげられ、引用され、具体的に批判的に言及された。小説では「説明」をせざるを得ない場面もでてくるが、その説明自体が面白くないと、小説は面白くなくなる。「恐ろしいことに芥川賞作家になってしまっているけど、この人はいつまでたっても下手で説明ばかりする…」。
●それらの「悪い例」に対して「良い例」として挙げられていたのが千葉雅也「デッドライン」だった。
物事が説明なしにいきなり描かれる(説明がなくても事後的にかなりの程度、理解できる)、説明せざるを得ないところでも説明がおもしろく書かれる、人物がたくさん出てくる(人物の出入りが激しい)がそれぞれ厚みがある、一人称からの視点の逸脱や、過去形と現在形が入り交じるなど、いわゆる「小説の規範」(規範は書き手にとっての「壁」である)から逸脱が随所にみられ、融通無碍に書かれているが、「規範からの逸脱」それ自体が自己目的化されているわけでもない。《家賃はけっこうしそうだった》と書かれるが、小説ではなかなか《けっこうしそうだった》とは書けない。
ハンドアウトのペーバーには、検討されるいくつかの小説の引用が載っている。それらはスマホによって書き写されたのだが、つまらない説明をする小説は、文が、スマホが「予測」する通りの展開をみせるので書き写すのが楽だったが、「デッドライン」の文章は、スマホの予測とはまったく違う展開なので、書き写すのが大変だった、と。そのようなレベルでも、「デッドライン」の文では紋切り型ではないモンタージュがなされていることがわかる、と。
●小説では、(作家自身より)頭のいい人の「頭の良さ」は書けない。「デッドライン」には徳永先生という「頭の良い人」が出てきて、「頭の良い人」を書くことに成功しているようにみえるが、これは、徳永先生の「頭の良さ」が書かれているというよりも、徳永先生という「変な人」のおもしろさが書かれている、とみるべきではないか、と。
●小説を書く上において、登場人物は多い方がよい(出しっぱなしで、そのまま二度と登場しなくてもよい)し、人物は実際の知り合いをモデルとする方がよい。それによって、ちょっとした一言でも厚みやリアリティがでる。人物は悪く書かない(よく書く方がより頭を使う)。そして、人物は時間の経過によって変化する(印象が変わる)ということを意識する、と。
●あと、第一作には自分がもっているすべてをそそぎ込むこと。出し惜しみをしてはならないし、納得できないものは何度でも捨てて書き直す覚悟が必要だ、と。すべてをそそぎ込んだ第一作目がなければ、その次はない、と。