●必要があって、『神の子どもたちはみな踊る』(村上春樹)のなかの短編をいくつか読んだ。最初に載っている「UFOが釧路に降りる」を、風呂のなかで読んでいたのだが、読み終わった時、思わず声に出して「くっだらねえ」と言ってしまった。実際に声に出して言いでもしなければ気が納まらないほど、下らないと感じたのだった。次の「アイロンのある風景」は、下らないを通り越して「許し難い」と思った。(そういえば、この本をはじめて読んだ時にも、同様に「許し難い」と思ったことを思い出した。)最後の方で、主役の若い女性がいきなり「私はからっぽなの」とか言って泣き出し、たき火のおっさんが「一緒に死のうか」なんて言い出すという展開などは、開いた口が塞がらないとしか言いようが無い。勿論、さすがに村上春樹渡辺淳一(読んだことないけど)ではないのだから、たき火は幻影であって、たき火が消えたら嫌でも寒くて「目は覚める」わけで、目が覚めることを前提としつつ、たき火=幻影の前で一時的に「酔う(眠る)=無防備になる」ことの必要性(不可避性)を描こうとしているのだろうけど。だだ、これらの小説が嫌なのは、充実した中身がなくてスカスカだからこそ(決して中身を充実させることなく、言葉だけを上滑りさせて、ただ気分のみを漂わせるのはさすがに上手い)、読む側が何かしらネガティブな感情に捕われていたりすると、感情がそこに吸い込まれるように投射されてしまい、過剰な意味付けをしてしまうだけならともかく、抜け難くハマッて、そこに落ち込んでしまいがちだ、ということだろう。まるでブラックホールみたいに、人の気持ちを吸い込む詐術が施されている。おそらく村上春樹にとっては、詐術であっても、一時的に人を酔わせて(無防備にさせて)「すっきりさせる」ものこそが「文学の力」なのだろう。まあ、一種のスピリチュアル・カウンセリングみたいなもので、そうだとしたら、積極的に良いとは思えないけど、「許し難い」というのはちょっと言い過ぎなのかも知れない、と、やや考えを改めた。(人がそういう次元で「すっきり」したり「救われ」たりすることは否定出来ないと思う。それは例えば、酔っぱらって騒いだりしてすっきりするのと基本的にかわらない。そういうことを否定しても仕方が無い。いやむしろ。否定し切ってしまうのは危ない気がする。しかし、そういう次元のものは、たんにそういう次元のものでしかない。)
「アイロンのある風景」で、主人公の女性と同棲している啓介という人物は、たき火の途中で「うんこしたい」とか言ってさっさと一人で家に帰ってしまうのだが、ぼくには、この啓介の態度こそが、最も聡明で好ましい態度だと思える。この啓介という人物は、例外的に魅力的に描かれている。
書いていた途中の原稿(この日記を書いている時点では、既に書き終わっている)で、ちょっと批判的に言及しようかという下心があったから読んだのだけど、はじめから批判するために何かを読むなんていうのは、基本的に間違っていると改めて思い直してやめた。