三鷹天命反転住宅内覧ツアー(2)

(昨日からのつづき。荒川修作三鷹天命反転住宅について。)
●すり鉢状にへこんだ部分を中心として、同心円的にひろがってゆく円形の空間であるせいか、部屋に入るとすぐ、自分がどちらの方向からそこに入って来たのか分らなくなる。勿論、窓から外の景色が見えるので、方向が完全に失われるわけではないし、その気になって探せば出入り口はすぐ見つかるのだが、そこで一旦外との繋がりが切られるというか、自分がそこまでたどり着くための「来歴」が一瞬忘れられるというか、つまり、自分がいきなりぼつんとそこにあらわれたかのような感じになる。
●部屋のなかには、構造上の必要性とは無関係に、ほとんど障害物のような柱がたっている。これに、登り棒のように登って楽しんだりもできるけど、ちょっと気を抜くとぶつかってしまうそうだ。中心に有るキッチンの一部に、鋭角的な角があって、これに足の小指とかをぶつけると、激しく痛そうだ。
●基本的な空間の構造は意外なほど単純で、ことさら空間の複雑さが目指されているわけではないようだ。しかし、構造がシンプルな割には、視覚的にごちゃごちゃしている、というか、ガチャガチャしているという印象がある。これは、13色たったか14色だったかが使われているという色彩の配置のせいもあるだろう。部屋のどこから、どのような姿勢で、どちらを見ても、その像が「絵」として落ち着くところがない。どこにいて、どの方向に目を向けても、常に複数の仕切りや障害物によって、空間が見渡せないし、複数のフレームに仕切られてしまう。おそらくこれは、見るための空間ではなくて「動く」ための空間であるようだ。しかし、かといって視覚的に退屈な訳ではない。ガチャガチャしているというのはつまり、常に視覚的な情報が過剰なわけで、このことは、このなかで「生活」してゆくとしたら、必要以上は「見ない」という態度が必要とされるのかもしれない。
ことさらギラギラしているわけでもなく、かといって、美的な調和がなされているというわけでもない色彩の使用は、視覚を常に軽く刺激しつつ、視覚に「落としどころ(解決)」を与えない感じだ。見るということは常に「何か」を見るということで、例えば、何か妙なものを視界が察知した時、それが「何なのか」を探るために視覚は見ることに注意深くなるが、「何なのか」が分ってしまう(解決していしまう)と、どうしても視覚の注意深さは失われ、後は「それ」を「それ」だと確認する以上には「見る」ことがなくなってしまう。例えばその「何か」が、抽象的な「ある調和」や「ある美」であっても同じだろう。しかし、解決されない視覚は、常にある緊張を保ち続けることが強いられる。つまり、必要以上は見ないということは、視覚が解決を得ることが出来ないということでもあって、視覚を常に「解決以前」のやり方で使うということで常に軽い緊張が強いられるということだろう。
●おそらく、中心にあるキッチンとその周辺の砂丘が固められたようなスペースが公的なスペースで、そのまわりにある小さな仕切られたブロックが、私的なスペースということなのだと思う。しかしここで、公的とか私的とかいうのは、何を意味するのだろうか。公的というのは、複数の身体がそこで集う場所であり、ある種の「和み」が形成されつつも、常に身体的な緊張が強いられる場所、集団的なエクササイズの場所というくらいの意味だろう。この公的スペースの広さが、何とも中途半端なのだ。複数の身体が集い、「和み」を生むに充分ではあるけど、でもその時に常に、障害物との接触や他者の身体との接触を気にかけている必要がある、という程度には狭い。(ことさら「濃い関係」を強いるような)ことさら狭苦しい場所ということはないけど、身体を伸ばして緩くリラックスするにはやや狭い。この中途半端さが、常に(意識されるかされないかの中間あたりの)軽い緊張を身体に強いるのだと思う。公的なスペースがあるということは、この住宅は単身者向けのものではなく、同居という、最小単位の社会性が意識されたものなのかもしれない。あるいはしかし、この公的なスペースによって、単身であっても「公的」であり得る、という意味も込められているのかも知れない。
私的なスペースとは、自分が一つの身体として意識される場所であり、公的な緊張状態が緩和される場所でもあろう。立方体の寝室は、一人の人間が身体をゆったりと伸ばしてリラックスするのにちょうど良いくらいの広さをもっているように思う。ここではおそらく、一人一人が他から切り離されてある自分の身体それ自身を意識するのではないか。スタディと呼ばれる球形の部屋では、音が妙に響き、自分の発した声が、自分の耳元でささやかれているように感じられる。キッチンまわりのスペースが、(例え一人で住んだとしても)共同的なものとしての身体のエクササイズの場であり、生活の場であるのに対し、このスタディの部屋は、個としての身体のエクササイズの場所であるように思う。
●天命反転住宅を訪れて一晩あけて、今、ふくらはぎと股とに軽い筋肉痛があり、腰から背中、肩にかけて、ちょっとした凝りがある。(これといって特に、部屋のなかで激しく動いたわけでもなしい、妙な姿勢をとったわけでもないのだけど。)これが、天命反転住宅から直接的に身体に刻まれた痕跡だといえる。(フィレンツェが、その石畳の、デコボコして堅い地面によって、ぼくの腰に腰痛という痕跡を刻んだように。フィレンツェの時は、ほぼ一日中歩きまわっていたせいもあるけど。)近代美術的なディシプリンがある人は、荒川修作のコンセプトを「言葉」として聞くと、どうしてもそれが『キッカイくん』の家みたいな複雑な空間になるのだろうと想像してしまうのだけど、実際に出来上がった空間の、ある意味拍子抜するくらいのシンプルさをみて感じるのは、荒川という人はすごくプリミティブな人だという感触だ。
●事務所の方に聞いた話。その人が荒川修作と初めて会った時、荒川氏は、ホテルのバーだかレストランだかで、自分の仕事について二、三時間かけて熱心に語ったそうなのだが、その間じゅうずっと、コップの水に指を浸していたそうだ。荒川氏は、食べるということに興味がなくて、一緒に食事に行っても自分は食べずに相手が食べているのを見て自分も食べたような気分になるそうだ。水も、飲むのではなくて「触れている」のが好きらしく、つまり、飲むという形で取り込むのではなく、触れることで体内に取り込む感じなのだと言う。ある意味「アラカワ伝説」みたいな話だけど、「触れることで体内に取り込む」というのは、とても荒川修作的だと思った。
荒川修作の仕事は、おそらく美術とも建築とも関係がない。それはおそらく「作品」ですらない。いくつかの社会的、ジャンル的な文脈(の絡み合い)と、その中での差異化のゲームというようなものに縮減されてしまっている「現代美術」とは無関係の場所でなされている。表現とか美とか理念とか象徴とかに媒介される必要のない、あるいは美術史的文脈を考慮する必要のない、それぞれ個々の身体に直接はたらきかける実験の場としてある。しかしにも関わらず、このような場によって与えられる経験には、「荒川修作」という個人の名前が強く刻みつけられているようにも感じられる。いわゆる「作品」とはまったく別の形をとりながらも、やはり本質的に作品なのではないだろうか、という感じがぼくには強くある。
とはいえ、観られるためのものとしての「美術作品」というわけではないこの場所に、ほんの半日弱ほどいたくらいでは、この場所によって与えられるかもしれない経験の可能性の、ほんの一部も得られてはいないだろう。すくなくともある一定期間は住んでみなくては分らないと思う。
見る前に思っていたよりもずっと、「住んでみたい」と思わせるような、普通に魅力的な空間でもある。(かなり住みづらいであろうことは事実だけど。)一番安い部屋で家賃は十九万、一番高い部屋は二十五万で、契約時にはその他に、敷金、礼金、手数料として家賃五ヶ月分が必要ということで、ぼくには全く無理だけど。