●大学の講義で「馬」(小島信夫)を取り上げる予定なので、『若い読者のための短編小説案内』(村上春樹)で「馬」について書いているところを読んだ。だがこれは、小島信夫の小説について書いているというより、村上春樹が自身の小説のモチーフについて書いているように思えた。
《彼の手にはふたつの選択肢が与えられています。 ひとつはそのトキ子の企みを受け入れ、やがては破壊されて、精神病院に入ること。もうひとつは厳然ととその企み=妄想装置に戦いを挑むことです。最後に彼は立ち上がり、五郎に向かって戦いを挑む道を選びます。乾坤一擲ここでひとつ雌雄を決してやろうじゃないかというわけです。しかしそれはある意味では自分の影との戦いであり競争です。それはタフな闘いですが、いつ果てるともない、どこにもたどり着くことのできない不毛な戦いです。 人はどれだけ早く走ったところで、自分の 影に勝てるわけはないのです。》
《結局のところ彼はそれに敗れ、傷つき、敗北を認めた上で自ら進んで精神病院に入ろうとします。 しかしそれをトキ子が追ってきて、押し止めます。そうです、 彼は負けてはいなかったのです。彼が最後に戦いを挑んだことによって、おそらくトキ子の仕掛けた妄想の装置は呪文を解かれたのです。ちょうどオペラ「魔笛」の主人公がいくつかの与えられた試練をくぐり抜けて、その結果高いステージに達するようにです。》
《どうして彼女は「愛している」と夫に言えなかったのでしょう? そしてまたどうして「僕」は トキ子にその明言化をきっちりと迫らなかったのでしょう?》
《おそらく契約を明化することによって、互いに裸で正面から向かい合うことによって、 様々な傷口や自己矛盾が白日のもとに明らかになることを、彼ら二人は恐れていたのではないでしょうか。だから二人は、<家>や<馬> という別の存在に、そのような妄想的外部装置に、自分たちの感情や欲望を付託しないことには、その契約をうまく有効化することができなかったのです。自分を分裂化したり妄想化したりしないことには、そのような「明確に与え、明確に受け取る」 契約状態に耐えていくことができなかったのです。》
ぼくにはこの小説が「癒しと赦し」の物語だとは読めないし、《僕》がタフな闘いを挑んで高いステージを目指すような人物とは思えないし、ラストの「トキ子による愛の告白」をもって二人の対等な関係への出発点となる、という風に読むこともできない。そんな(判で押したような)ちゃんとした話とは思えない。
村上春樹は、建てられる二階屋の財源が、そこで世話をされる馬から得られていることについて《どう考えてもあまり説得力がな》く《額面通りには受け取れない》とし、これはリアリズム小説ではないのだから、その財源がきちんと説明される必要はないと書く。しかし、馬の住む二階屋の財源が馬自身の価値によって担われており、まさに馬車馬のように働かされている《僕》にはそれを負う能力がなく(《僕》は当初、建築費用はトキ子のヘソクリ=自分の稼ぎだと思っていたが、そうではなかった)、《僕》は馬のおかげで建つその家の二階にちょこんと間借りさせてもらうだけだ、ということは、《僕》に能動的な能力が決定的に欠けていることを書くこの小説では重要な要素の一つで、決して軽くみられるべきではないと思う。働きづめだった《僕》は、「馬のおかげで建つ二階屋」のおかげで、入院という形でではあるが「休息」を得ることさえできる(とはいえ、心は乱れて休むどころではないのだが)。
このこと一つをとってみても、最後に置かれた「トキ子の愛の告白」によって二人の関係が対等になるとはとても思えない。この「二階のある家」は確かに、トキ子から《僕》への愛の贈与(愛の告白への返答)なのかもしれないが、しかしこの家屋の存在そのものが、《僕》の能動力の徹底した欠落を表現してしまっているように思われる。二人の関係がこれによって変わるとは思えない。
(馬は、確かに幾分かは《僕》であり、《僕》の影ではあるだろうと思う。しかしそれは、「馬」によって《僕》の能動性や性的魅力が表現されている---だから《僕》はそれを取り戻し、乗りこなすべく奮闘する---という物語があるのではなくて、《僕》のものであるべき能動性や性的な能力が「馬」によってあらかじめ---《僕》の外部へと漏れ出て---奪われてしまっている、というニュアンスであるように感じられる。だから、二階のある家は《僕》のものではなくあくまで「馬」のものであり、《僕》はその片隅を間借りしているだけなのだ。)