2021-10-26

●カント的な自由(従わないことも出来る法に自らの意思によって従う)というような自由でもなく、いわゆる「自由意志」という時の「自由」とも違うものとして、自由の感覚、「自由を感じる」という時の「自由」がある。それは、選択肢がたくさんあって、そのなかのどれでも選べるということとは違う。Netflixにたくさんのコンテンツが並んでいて、定額を支払えばそのどれでも選び放題、というところにはあまり自由を感じられない。

あるいは、「自由の感覚」という時の自由は、選択肢の数の問題では無く技術の問題であるかもしれない。絵が上手い人は自由に絵を描けるようにみえるし、歌が上手い人は自由に歌っているようにみえる。とはいえ、技術がある人は結局、行えることの選択肢が多いのだと言えるのかもしれないが、技術的に上手い人から感じられる自由さは、たんに選択肢の多さだけでなく、選択肢を選択するときの基準の立て方やそれを変更するやり方の柔軟さや自在さやセンスや新しさで、自由の感覚はむしろ後者にこそ宿っている。

だが、それだけでなく、選択肢が限られているように見える、あるいは、一択しかないようにみえる場面で、今までに考えられなかった新たな選択肢を発見できる、あるいは創造できる可能性がある、という時に感じられる自由の感覚というのがある。また、今までは出来なかったことが出来るようになった時に感じる自由の感覚もある。こちらの方が、技術のある人から感じられる自由の感覚よりも、ずっと強く自由を感じる。

結局、技術のある人から感じられる自由(選択肢を選択するときの基準の立て方やそれを変更するやり方の柔軟さ)も、その根本にあるのは「今までに考えられなかった新たな選択肢を発見できる可能性(それを摑む能力)」であって、それが縮減された形として、「予め出来ることのなかから(今、ここで)何を選択するかという時の基準の柔軟さや斬新さ」があるのだと思う。

だから「自由を感じる」には未知と困難と可能性(世界のなかにアクセス可能で未確定な情報群がありえるという状況)が必要で、「未だ~ない」という状態が必要なのだと思う。

(ただ、まったく前例のない斬新な「やり方」があった場合、それがチートなのかそうではないのかを判断することは難しくなるかもしれない。そして結局は、チートかそうでないかの判断は、既成の権力者に委ねられる、ということになってしまうかもしれない。)

(たとえば、仮想通貨を認めるか認めないかは、結局のところ国の法整備のあり方に委ねられる。)

(たとえば、新人賞にとても斬新な作品があった時、その「新しさ」を認めるか認めないかは、結局のところ選考委員の「見識」に委ねられてしまう。)

しかし、無限に繊細なセンサーが張り巡らされ、膨大な情報の蓄積と、とんでもない計算量をもつ計算機がそれを計算し続ける世界で、たかが人間ふぜいに今後も「自由」があり得るのかどうかは分からない。自由は、常に計算機によって先取りされ、自分で気づく(発見する・つくる)よりも早く予め告げ知らされることになるかもしれない。その、完全に幸福だが(自発的)自由のない世界で感じる「気分」を想像するのは、今はまだちょっと難しい。

それでも「自由の感覚」があり得るとして、それは本当にものすごい天才にしかありえなくなってしまうのかもしれない。