2023/10/21

⚫︎永瀬恭一さんがぼくの作品について批評を書いてくれました。

worldend-critic.com

自分の作品について書かれた批評について自分でコメントするのはどうかと思うので多くは語りませんが、《single stroke structure》シリーズは、酒に酔った状態で作っていることが多くて、朝起きて、あれ、こんなの作ってたのか、みたいになることも多い作品なので、確かに何かが「だだ漏れ」になっているかもしれないと思います。「人体/動き/キャラクター」展については、永瀬さんがアトリエに対談を録音しに来てくれた以外にはまったく何の反応もなかったという悲しい記憶があります。また、ぼくの「ゴミ系列」の作品では、「一筆書きで描かれた顔」というシリーズもあるので、永瀬さんのテキストを読んで興味を持たれた方は、こちらの方も観ていただけると嬉しいです(この日記を検索すれば観られます)。

あと、小説について触れてもらえたのは普通に嬉しいです(最初の小説「「ふたつの入口」が与えられたとせよ」を書いたときは、自分のすべてを出し切ってしまった、もう自分からは何も出てこないのではないか、と思いました)。

で、言いたいのは、永瀬さんのこのテストが「すばるクリティーク」で最終選考まで残ったものの受賞には至らなかったテキストだということです。おそらく、こういう(埋もれてある、表に出すべき)ものはまだもっとあるはずだと思います。あまり大きな声では言えないですが、ぼくも新人賞の片隅にちらっとかかわっていて(ぼくの場合は小説ですが)、それで思うのは、かなり良い作品が、けっこう途中で落ちてしまうということです。それはあまりに惜しいことで、なんとかして「それ」が何かしらの形で人の目に触れ得るところに出ないものか、と、歯軋りするような感情とともにいつも思います。

新人賞に応募しているような人に言いたいのは、新人賞が唯一の基準ではなく、たとえ、賞としての評価が芳しいものではなかったとしても(かなり早い段階で落ちてしまったとしても)、自分として「何かしらの手応えをのようなもの」を感じたなら、「やっぱりダメだったか」と思ってしまわずに、何かしらの形で表に出す方法を探してほしいということです。「手応え」というのは常に「手応えのようなもの」というあやふやなものなので、それが「確信」である必要はないと思います。ウェブ公開でもいいので、とにかく、自分の手元に仕舞い込まないで表に出してほしいです(ウェブで長い小説を読むのは困難なので、印刷可能なPDFとかがいいかもしれませんが)。

大手出版社から「書き手」として認められればそれに越したことはないですが、それが唯一の道ではないし、既成の文芸の世界で認められることが唯一の基準でもないはずです。

⚫︎追記。本文で、「人体/動き/キャラクター」展について永瀬さん以外にまったく反応がなかったと書きましたが、「いぬのせなか座1号」でも取り上げられていました。読んでいていきなり自分の名前が出てきて驚いた記憶があります(と、控えめに書いてますが、ああ、あの展示について触れてくれる人がいた ! 、と喜びました)。(それなのに)忘れていてごめんなさい。

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