2020-01-06

●お知らせ。「文學界」二月号から一年間、「新人小説月評」を担当することになりました。

https://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/

その月に出た文芸誌に掲載されるすべての「新人」の小説を読み、(基本的に)すべてについてレビューする、というコーナーです。なお、ここで(「文學界」によって設定された)「新人」の定義とは、「未だ芥川賞を受賞していない作家」であって、デビューして何年以内、というような基準ではありません。

(たとえば「群像」の一月号には、飛浩隆の短篇が掲載されていました。81年にデビューしたベテランであり、日本SF大賞星雲賞日本短篇部門・長編部門などを受賞されていて、既に高い評価のある重要な作家ですが、ここではあくまで「新人」として扱われます。)

●この話を打診された時には、「これは自分のやるべき仕事だろうか」ととても悩みました。

おそらく、雑誌「文學界」のなかで最も地味で目立たないページであり、読む人も最も少ないページではないか。その反面、未だその資質の方向も定かではなく、言及されることも多くはないと思われる「新人」の小説から、できる限りのポテンシャルを聴き取ろうと努力し、そこに何かしらの形としての評価やコメントを返さなければならないという仕事は、責任が重く(よって気も重く)、かつ、単純に作業としてかなり多くの時間や労力がとられてしまう。

人には誰でも能力の限定があり、その人に固有の守備範囲のようなものがあって、その外に転がった球については適切に受け止めることが難しい。ぼくがある作品を退屈で弛緩していると感じたとしても、それが本当に弛緩しているのか、その作品のもつポテンシャルを自分が上手く受け止められていない(知識が足りていない・チューニングをあわせられていない)だけなのか、分からない。だから通常は、ピンとこない作品については語らないし、少なくとも何かしらの思考過程を示したり、保留をつけたりすることなく、断定的に否定的な評価を下すということはしない。

しかし「新人小説月評」という枠のなかでは、来た球すべてを拾いにいかなければならないし、そして全ての球に対して何かしらの形で返球することが強いられる(しかも、それにかけられる時間、紙面=文字数は極めて限られている)。だから、そのようなことをできるだけ避けるように努力は当然するが、それでも「不十分な読みによる粗雑な断定」のようなことを「ゼロ」にすることは---限定された能力しかもたないので---不可能だろう(そして、そのような不当な扱いをされた作家は、そのことをずっと忘れないだろう)。

 (そのために「新人小説月評」の評者は二人いるのだが。)

しかも、一年間やったとして、その集積がひとつのまとまった仕事となるわけではない(連載が一本の長編評論になる、というようなことにはならない)。

こうみてくると、割に合わない仕事で、受けることにあまり「得」はないように思われる。しかし、一つは、ぼくは自分の「守備範囲」が極めて狭いと感じており、一種の「千本ノック」を受けるような気持ちで、多少でも柔軟性を鍛えたいという思いがあり、また、こういう機会に強制的に読まされるのでなければ読まないような小説のなかから、重要な(未知である)何かを見つけ出すこともあり得るのではないかという期待がある。未だ、形も評価も定まっていない掴みがたい何ものかに直に触れる機会をもつということは、非常に重要なことだと考える。そして、そこから、ぼくだからこそ触れ得る何かを(一作でも)つかみ出すことが出来たとしたら、自分がやる意味となるかもしれない(そして、それは結果として自分自身を変えることにもなるはず)。

もう一つは、身も蓋もないはなしだが、一年の間、定期的な収入が保証されるということは小さくないことだ、というところもある(お金は常にないので)。