●テレビドラマ版『モテキ』を6話まで観たのだけど、これは面白い。大根仁を観る順番として、『恋の渦』や映画版『モテキ』よりもこちらを先に見るべきだったなと思う。
最近、「物語」について考えていて、意識的にテレビドラマをたくさん観ている。物語は基本的に退屈なもので、題材は違っても基本パターンはだいたい決まっているし、紋切り型の登場人物(の配置)があって、お約束の段取りや展開があって、お約束の「お約束外し」があって、なにかしらのオチがある。そのような眼で見るかぎり、だいたい同じようなものだとも言える。しかし、それでも、面白いものとそうでないものとは明らかに違う。それはたんに主観的なものに過ぎないとも言える。確かに、それを観るぼく自身の趣味や好み、あるいは興味の傾向などが大きく影響するとは思う。でも、どうみてもそれだけだとは思えない。
(ここでの「面白さ」は、作品としての面白さというより、物語としての面白さのことに限定して考えている。)
(とはいえ、ぼくはこれまで「物語」というものにほぼ興味がなかったので、今までとは全然違った頭の働かせ方が必要となって、ぎくしゃくして上手く頭が使えない感じ。)
例えば、題材も演出タッチもお話も似たようなもので、スタッフも共通していて出演者も多く重複する、映画版『モテキ』とテレビ版『モテキ』とでは、明らかにテレビ版の方が面白いと思うのだけど、その違いはどこにあるのだろうか。
物語の構造のようなものをいくら勉強しても、そこそこ整った物語がつくれるようになるだけだろう。そうではなく、「面白さの構造」のようなものがあるのではないか。結果として「多くの物語の形がそのようなものへと落ち着く」ことの原因として働いているもの、話の動きや展開を物語の型の方へと導く、それより手前で働いているものとしての、「面白いと感じさせる動きの構造」があるのではないか。
●例えば西川アサキは、自然科学の論文を参照して、新発見=面白さ(新鮮さ)を生じさせるパターンを六つ抽出して、それを「面白さの篩」と言っている(『魂のレイヤー』第五章)。それは次のようなものだ。
「別原因」(XならばAだと思っていたのが、実はAの原因はYだった――例えば、複雑な鳥の群れの動きには、複雑な規則性Xがあると思われていたが、意外に単純な規則Yによって再現できた、等)。
「極限ケース」(Xの結果Aになるのが普通だが、Xを極限状態にすることで別の結果Bが得られる――例えば、超電導量子もつれ、等)。
「主従逆転」(XならばAという時、Xが主でAはその派生物と思っていたのに、逆にAこそが主でXの方が派生物だった――時間・空間よりも速度=光速こそが基本だったという相対論、等)。
「無駄な変数の消去」(XならばAということは分かっているのだが、Xを構成する雑多な条件――X1〜X10――のなかから、X3とX7こそが効いているのだと分かる――例えば、IPS細胞を実現した中山カクテル、等)。
「前提拡張」(通常、XからAは導かれない――X→notA――のだが、Xの前提を拡張することでAが得られた――例えば、波動関数そのものの測定は通常不可能だが、「弱測定」によりある程度は測定可能になる、等)。
「双対」(AとBとはまったく別の出来事だと思われていたが、実は両方とも同じXの異なる表現だった――例えば、磁気と電気の関係、等)。
これらは基本的に、「XならばA」という常識的因果関係(常識的進行)が元にあり、そこからのズレ方のパターンとなっているので、通俗的な物語の進行パターンのバリエーションとして考えることができる。
(ここに哲学における論理展開パターン――自己言及とか階層性の破れとか――を加えると、もう少し超絶的というか、前衛的な進行パターンも考えられるだろうと思う。)