●『サイコパス2』。うーん、これ終わってない。続編へのブリッジみたいな感じ。この物語のラスボスはあきらかに常森で、常森とシビュラシステムの対決がないと話は終わらないと思う。というか、意識的にそちらへと観客の関心を誘導しておいて、「つづきは劇場版で」という感じ。
とはいえ、一期よりはずいぶん面白い。キャラが皆けっこう魅力的で、キャラという点についてはなかなかすばらしいと思った。カムイも面白いし、霜月監視官、東金執行官、雛河執行官という新しいキャラが出てきて、公安局内のキャラの配置もぐっと面白くなった(ただ、最後の方で東金執行官を単純なマザコンへと矮小化し過ぎたと思う)。一期は、中途半端に古い刑事ドラマのパターンを踏襲していたりするところがなんともダサかったけど、そういうダサさはなかった。
この作品と比較すべきなのはおそらく『ガッチャマンクラウズ』で、この作品の常森と、「ガッチャマン…」のハジメはどちらも世界の規格から外れた一種の(ニーチェ的な)超人だと思う。超人の存在によって、ある世界像が照射される感じ。管理システムとしての、シビュラと総裁Xとの違いなども興味深い。
ただ、この系統の作品には過去に『攻殻機動隊』(神山版)という、あまりに高いハードルがあって、そこにはなかなか届いていないと思う。
●まず、シビュラシステムの意味づけが中途半端だと思った。一方で、シンギュラリティ以降の人工知能の問題を意識している感じ(自己更新するシビュラシステム)があるし、物語全体をパラドクスを基本として組み立てているのも面白いのだけど(ただ、最強であるはずのシビュラシステムが常森の意見を取り入れるというのはどうか、そのくらい自分で考え出せよ、とも思う)、もう一方で、にもかかわらず、結局は、古臭くてありきたりな「ビックブラザー」的な監視社会のイメージに収束させてしまっている感じが強い。それに、パノプティコン規律訓練型権力のモデルだから、この物語には当てはまらない、みたいなツッコミもあり得る。思想的なものを取り込むならもうちょっと新しめのものが必要ではないか、と。最後の方で東金美紗子が語る「魔女狩り社会が…云々」とかも違和感があって、集合知的なシステムのヤバさの捉え方が古いように思った。ただ、現時点では最後に出てきた「集合的サイコパス」というヴィジョンがどういうものなのかはっきりしていないので、それが劇場版でどういう形で描かれているのかで、この感じは変わってくると思う。
●人が物語のなかでテロリストに惹かれるのは、彼が目的のためには手段を選ばず人殺しも厭わないというブラックな側面をもつのと同時に、そのカリスマ性や大義(思想)にある気高さを感じるというギャップによってだろう。そのカリスマ性の造形という点では、カムイはとても面白いと思う。カムイは、飛行機事故で死んだ百数十名の死体を貼りあわせてつくられた、匿名的な死者たちの遺志の集合体のような存在で、故に特定の「色」をもたず、シビュラはそれを裁けない。ならば、シビュラもそれに合わせて集合化して対応する、というのが物語の大雑把な流れだろう。
そもそも、カムイが許し難いと感じているのは、シビュラシステムそのものではなく、シビュラ導入のために多くの人を犠牲にした政治的な駆け引きであるはずだ(「地獄の季節」はその駆け引きの結果、引き起こされたのだから)。彼の敵は「地獄の季節」を引き起こし黙認した政治家や官僚であって、システムそのものではない。あるいは、システムの成り立ち方を許せないと思っていたとしても、そのシステムそのものに対する評価は別であるはずだ。彼の目的はシビュラの否定ではなく、自分と対面したシビュラがどう出るのかを見極めることで、それはむしろシビュラとの対話であり、対話を通じたその改革(更新)が目指されているのであって、それは単純な否定ではないはずなのだ。
彼がシビュラを否定しようとしているというより、彼の存在そのものがシビュラにとって重要な矛盾(課題)であり、その解決のためにシビュラの自己更新が起こる、というのがこの物語の構造なのだから、重要なのは彼の「存在」であって、「思想」は大きな問題ではない、ということになる。だから、彼の信奉者は、思想の共鳴者であるというより、彼に「依存」しているのだというニュアンスで、この物語では語られる(ここで「依存」という言葉の安易な使い方には、ちょっとひっかかるものがあるのだが)。
というか、この作品では、シビュラシステムの何が問題なのか、という点がイマイチ明確ではないので、それに反対しようとする人の「思想」も明確に立てることができない。だから、シビュラ対テロリストの明確な思想的対立をつくれなくて、そのかわりにシビュラとテロリストの関係がパラドクスを生じさせてしまうという「構造」による対立がつくられる。でもそうなると、構造の一項であるカムイの主体性がよく分からなくなる。カムイの行為が(革命でも抵抗でもなく)たんなる報復のようにも見えてしまう(それが、多くの無名の死者たちによる集合的な報復だったとしても)。そうなるとカムイというカリスマの気高さに、疑問が生じてしまう。彼は存在そのものが集合的であるが故に「無私(無色)」であるからカリスマであったはずだが、報復の動機をもつ時点でそこに「私(色)」が生じてしまう。
(カムイは、ただ問いつづけることで相手の矛盾を浮かび上がらせて破綻させる黒沢清『CURE』の萩原聖人に近い。ただここで、萩原のカリスマ性を支えるのは、彼自身には報復などの動機がなく、否定への欲望もない存在であることで、彼は意思をもたないウイルスのような存在だ。しかしカムイは行為への意思と報復への動機をもっているので、報復とは切り離された思想を別にもっていないと、その行為は報復であるかのように解釈されてしまう。その意味でラスボスはやはり常森で、彼女はシビュラシステムのなかで最適化された完璧なエリートであり、彼女がシステムを否定するとしたら、外的要因ではなく、内的、あるいは思想的なものであるしかないだろうから。)
一方に、シビュラシステムという管理システムのイメージがいまひとつ明確ではない(中途半端に新しく、中途半端に古い)ということがあり、もう一方に、それに反対する側の思想もまた明確ではないということがあり、この両者の不明瞭さが、三つめの項である東金母子の存在をも矮小化してしまっていて、これらの要因がこの作品を相乗的に弱くしているところはあると思う。
●あと、全体的に作画が弱かったと思う。