2019-01-29

●『アンナチュラル』を最後まで観た。面白かった。『獣になれない私たち』と違って一話完結がベースになっているから、ばらつきがあって、(脚本的にも、演出的にも)イマイチだと思われる回もあったけど、全体としてはとても面白い。

(最終話が、三話のきれいな反転形になっているところとか、ぞくぞくした。)

最悪の殺人鬼を、サイコホラーとは違って「怪物」として描いていないところが新しいと思う。とはいえ、心理的、あるいは、因果的な必然(たとえば「暴力の連鎖」のような)として描いているのでもない。野木亜紀子の脚本が問題にしているのは(『獣になれない私たち』でも同様だが)、交換可能性と固有性との相克、あるいはその並行性のようなものだと思う。

あらゆる人物の位置が、構造的には交換可能であり、しかし、特定の誰かがいるのは、交換可能な位置のうちのどこか一つでしかあり得ない。ああであり得たかもしれないし、そうであり得たかもしれないが、こうであるものとして「ここ」にある。乱反射するほどの交換可能性が示されながら(たとえば三話で主人公---石原さとみ---が置かれる位置に、最終話で殺人鬼が置かれる、二人はともに殺人鬼となってもおかしくないような過去をもつ)、しかし決定的に異なる別の人物として出現している。

生きている人と死んでしまった人との違いは偶然でしかないかもしれないし(たとえば、八話の火事で「彼」だけが生き残ったのは偶然だろう)石原さとみと殺人鬼との違いも偶然でしかないかもしれない(石原さとみには、薬師丸ひろ子という存在がいたが、殺人鬼にはいなかっただけかもしれない)。しかし、違いがあるとすれば、石原さとみは「ああであったかもしれないし、そうであったかもしれない者として、現にこうである」という自覚と問いがあるが、殺人鬼には、「こうでしかあり得ない者として、こうである」という思いしかないという点ではないか(最終話の石原さとみは、三話に対する自らの位置の交換---自分と殺人鬼との位置の交換---を意識して演じているだろう)。この違いが、逃れられない過去という「(不条理な)問題」に対する解として、「法医学者」であるか「殺人鬼」であるかの違いとして現れるのだと思われる。

(だから、『アンナチュラル』は必ずしも「科学主義」のドラマではないと思う。科学主義=因果性よりも、「交換可能性と固有性との並立」が強調されている。)