2019-01-28

U-NEXTで、『アンナチュラル』三話を観た。二話まで観てそれっきりになっていたのだが、先日お会いした人に、『アンナチュラル』は三話がキーになっていると聞いて、とりあえず三話を観てみようと思って観たらすばらしくて、即、全話をレンタルした。野木亜紀子の脚本はやはりおもしろいと思ったし、テレビドラマというものは確実に進化しているのだな、とも思った。

『獣になれない私たち』とは違って、ある事件が一話完結的に示されると同時に、その事件の解決を通して、それを扱う組織(UDI)の内部にいる人間たちのありようや関係が持続的に深められていく。ここでは、「事件」そのもののリアリティというより、それが解決されていく過程が重要になる(扱われる「事件」そのものはそれほど新鮮でもなく、リアルというわけでもない)。ある問題があり、あるいは、ある対立がある。まずはその問題や対立を解くための努力がなされるのだが、しかし、捜査や検証によるデータの追加や解像度の向上によって、最初にあった問題や対立の「構え」そのものが揺るがされ、最初にあったものが偽の問題であり、偽の対立であったことが明らかになる。

それは停滞であり行き詰まりであるのだが、同時に、正しい問題へと至るための準備作業でもあり、飛躍への猶予時間でもある。『アンナチュラル』の面白さや新鮮さは、この、古い問題から飛躍する時の「問題そのものの組み替え」や「問題に対するアプローチの転換」の鮮やかさと意外さにあると思う。

(そして、その飛躍が、何段構えにもなって複数化されている。)

そして、三話では、「問題に対するアプローチの転換」が、並行する二つの問題に対する解法(解決者)の入れ替えによってなされる。「女性差別」と「パワハラ」という問題は解決しないが、しかしそのよううな分かりやすい「問題」への誘導が、現にここにある「解決しなければならない何か」に対しては間違った問題化であったことが、この転換によって示される。それは、現にここにある問題が「大問題」にすり替えられた、現状にかんするミスリードだったのだ。

(それはもちろん、女性差別パワハラが「問題ではない」ということではなく、その問題は消えずにありつづけるが、「ここ」ではそのような問題への焦点化が適切ではなかったということだ。)

ここで、主人公の二人が、それぞれが抱えている「問題」を交換することが問題を解決に導く、という形態が、『獣になれない私たち』の物語における位置の交換という形式と似ているところが興味深い。扱っている題材は大きく異なっているが、その形式には共通性がみられる。