●お知らせ。東京新聞の11月11日付け夕刊に、東京都現代美術館MOTコレクション展「布に何が起こったか」のレビューが載ります。
●ネットの古本屋に注文してあった、『カイエ・ソバージュ1 人類最古の哲学』(中沢新一)と『考える脳考えるコンピューター』(ジェフ・ホーキンス)が届いた。ジェフ・ホーキンスという名前は、五日の懇親会で「脳科学が相当やばいことになってきている」みたいな感じのことを言いつつ柄沢佑輔さんが口にしていた名前で、気になっていた。あと、リオタールの『言説・形象』が気になっているけど高くて買えない。
●『考える脳考えるコンピューター』を三章まで読んだ。一、二章は、ホーキンスという人の研究者としての人生のすすみ行きと重ねて、脳や人工知能に関するこれまでの研究の歴史を批判的に振り返るみたいな内容で、それなりに興味深いけどへーっという程度なのだが、具体的に脳について語り始める三章からやばい感じになる。
三章のはじめでホーキンスは、人間の知能にとって本質的な活動はすべて、脳の最も外側にある薄い層である「新皮質」がかかわっているとし、自らの研究をそこに限定することを告げる。ここでけっこう怖いことをさらっと言う。
《さて、わたしの反論は、人間をつくることに興味がない点につきる。目指すものは、知能の解明と、その先にある知能を備えた機械だ。(…)知能を備えた機械には、性欲も、飢えも、脈拍も、筋肉も、感情も、人間の姿をした身体も必要ではない。(…)疑いもなく知能を備えているが、人間と同じにはみえない機械をつくるだけなら、脳のなかで厳密に知能とかかわる部分だけ注目すればいい。》
●新皮質は、六つの層があり、二ミリほどの厚さをもち、面積は《大きめの食事用ナプキンほど》であり、それが脳の表面を覆っているという。それぞれの部分が、特定の思考や知覚に特化されていて、半ば独立しているとも言えるが、実際の配置はふぞろいの布でつぎはぎされたパッチワークのように入り組んでいる。新皮質の機能には階層性があるが、上位、下位の関係は脳のなかの位置とは関係ない。《二つの領域の上下関係は、それらがどうつながっているかによって決まる。新皮質の階層では、下位の領域が神経の経路の一つを介して情報を上位に提供し、上位の領域がべつの経路によって下位の活動を調整する。さらに、階層構造の異なる枝に属する領域のあいだにも、横方向のつながりが存在する。》新皮質のニューロンの約八割が錐体細胞と呼ばれるもので、それぞれの錐体細胞は《すぐそばにあるほかの多数の細胞とつながるとともに、新皮質内のもっと離れた領域や、視床などの脳の下部にある組織へと、きわめて長い軸索を伸ばしている》。典型的な錐体細胞は約数千個のシナプスをもち、新皮質全体では少なく見積もっても三十兆個のシナプスが存在する。
●という風にざっとその構造を説明した後、ヴァーノン・マウントキャッスルという研究者による発見を発端に、驚くことが語られはじめる。
その発見とは要するに、新皮質の構造はどこも均質であり、視覚や聴覚を処理する領域も、筋肉を動かす運動野も言語をつかさどるブローカ野も、基本的な処理(計算手段)は同一であると考えられる、ということ。
《実際、マウントキャッスルは、領域同士がわずかに異なっているのは、基本的な機能ではなく、つながりに違いがあるからだと主張している。結論として、新皮質には共通の機能、共通のアルゴリズムがあり、あらゆる領域がそれを実行する。視覚と聴覚の処理に違いはなく、運動を起こす処理とも変わらない。(…)新皮質の組織そのものは、いたるところで同じ処理をおこなっている。》
《新皮質のアルゴリズムは、いかなる特定の機能や感覚からも独立していなければならない。脳が使う手順は、見るときも聞くときも同じなのだ。新皮質の何らかの普遍的な処理方法は、あらゆる種類の感覚系や運動系に適応できることになる。》
《つまり、流れ込む入力の種類に応じて、つながりと機能を変える。たとえば、生まれたばかりのフェレットの脳に手術をほどこし、目からの信号がふつうは聴覚野として発達する領域に送られるようにする。その結果、驚くことに、聴覚野の中に視覚を伝達する経路がつくられる。べつの表現をすれば、このフェレットは脳の通常なら音を聞く領域を使って、ものを見ている。》
●と、このようなことを書いた後、そもそも、脳の中の信号はすべて均質なものなのだという話をしはじめる。
《信号はさまざまな感覚器官から送られてくるが、いったん脳に向かう活動電位に変わってしまうと、すべて等価になる。つまり、単なるパターンにすぎない。》
《イヌの姿、鳴き声、感触それぞれのパターンは、新皮質の階層を異なる経路で流れるため、違った体験に感じられる。このような印象の違いは、信号が脳のどこに入ってくるかによって生み出されている。だが、抽象的なレベルで感覚の入力を眺めれば、本質的にどれも同じ形式で、新皮質の六層の中ですべて同様に処理される。光を見て、音を聞いて、圧力を感じても、脳の内部では情報の種類による根本的な違いはない。活動電位はそれ以外の何物でもない。この一瞬のパルスは、そもそも発生の原因がなんであれ、まったく同一だ。人間の脳には、パターンしかわからない。》
●このような記述は、ぼくが普段感じている実感のようなものとすごく合致する。つまり、さまざまな感覚が相互に変換可能であること、そして、その変換過程そのものにも、ある感覚的な歓びが生じること、感覚の質はつながりと配置や絡み合いによって生まれること、などだ。抽象的であること(パターンの複雑さやパターンそのものの変化や動きなど)の具体的な手触りがある、というのか。色から音が感じられ、形からリズムや動きが感じられ、それらが複雑に絡み合い、響き合うものとしての「空間的な配置」から「歌」が感じられるのが絵画であろう。そしておそらく、それは人にアナロジーという思考の形態を可能にする。
●そしてホーキンスは、脳は、あらゆる信号を時間的・空間的パターンとして認識するとし、さまざまな感覚の共通性を記述する。視覚は、空間的パターンであるだけでなく時間的なパターンでもある。人間の目は一秒に三回、サッカードとよばれる急激な動きをし、そうでなくても、人の頭部は絶え間なく動いていて、網膜に流れ込んでくる像は決して同じパターンを繰り返さない。にもかかわらず、通常は苦労しなくても安定した世界(空間)を見失わないのは、脳がそこに同一性をみつけるからだ、と。《自然な状態での視覚パターンは、川の流れのように移り変わりながら脳に入ってくる。それは絵というより歌に近い》。聴覚もまた、時間的であるだけでなく空間的である。耳のなかにある蝸牛殻は、音の成分(周波数)に応じて違う場所を振動させる。つまり空間的な情報が音の高さとして変換されている。触覚もまた、空間的で時間的な情報である。ただ触れるだけでなく、指を動かすことによって、その触感をより鋭敏に感じることが出来る。《指先はきわめて鋭い感覚をもっているという意味で、網膜の中央にある中心窩になぞらえられる。》《触覚もまた、歌のようなものなのだ》。
●そして三章の最後に、荒川修作を思わせるような実験が報告される。これが、理論的な仮説ではなく、実際に実験され、成果があったことだということに驚かされる。
ウィスコンシン大学の生物工学教授ポール・バリキタは、パターンであればすべて脳によって処理されることに気づき、視覚の情報を人間の舌に表示する方法を開発した。視力を失った人は、この装置を身につけて、舌への刺激によって「見る」ことを学習していく。》
この実験の被験者には、世界的な運動選手エリック・ヴァイエンマイヤーという人がいたそうだ。
《ヴェイエンマイヤーはこの装置を舌につけ、子供のとき以来、はじめて世の中を見ることができた。床を転がってくるボールを識別したり、机の上のジュースに手を伸ばしたり、ジャンケンで遊んだりした。(…)最初は舌への刺激でしかなかった映像は、すぐに空間をあらわすものとして認識されていった。》
●とはいえこの本は、ときどきとても怖い。ここでホーキンスが注目しているのは、新皮質で行われるアルゴリズムの驚異的な汎用性と柔軟性であろう。その秘密を解き明かして、この汎用性・柔軟性のみを利用して、人間の脳に装填されている「人間(動物)的な余計なもの」を排除できれば、すごい人工知能が出来るんじゃないか、というような。しかし本当にそんな感じで人工知能なんかつくっちゃっていいのか、と。それはかなりやばいんじゃないだろうか。