●引用。『朝露通信』(保坂和志)より。
《妹が生まれると母の実家のタテに長い庭の、昔お蔵が建っていた奥の方で毎日のように盥に水を張って日光で温めてぬるま湯にして母は赤ちゃんの体を洗った。それが妹だという記憶はないし、赤ちゃんの柔らかい肉の感触は自分じゃないとは思えないほど気持ちよくて、ここにあるのももうひとつの自分の体だと思うほどに自分の延長か自分そのもののように感じた憶えがあるが、そう感じたという事は自分ではない、自分がぬるま湯を張った盥の中で母の手で洗われる赤ちゃんであったはずはなくそれは妹だった。しかし二歳か三歳まで子どもはまだ出産時を記憶しているというのが本当なら、僕は赤ちゃんを洗う母の手を見ながら自分が洗ってもらったのを思い出していたのかもしれない。》
《僕はこの『氷川清話』を読んでて思った、僕のように寒さに弱く、ちょっとでも寒いとすぐに風邪をひくような人間は子供の頃に死んでいた。昭和三十一年に僕が生まれる前、僕は何度生まれても小さいうちに死んでいた、勝海舟の言葉を読んでいたら幕末明治維新の空気が急に身近になることがあり、ああ、自分はこの頃やその前やそれよりずっと前の時代に生まれるたびに死んだんだなあ、と不意に納得した。》
●「ごめんね青春」四話を観た。これは、最初に思っていたよりも、もっとすごい作品になり得るのかもしれない。この先に期待したい。
(拡張された「マンハッタン・ラブストーリー」のような展開だけど、「マンハッタン…」ではひねりまくった形式的操作が主だったのが、「ごめんね…」では学園モノ的でベタな要素がそこに配合されている。ベタなことをベタにやりつつも、同時にひねった形式的操作の展開がある、そのバランスが面白い。)
(例えば、満島ひかりのツン→デレ展開とか、それちょっとベタすぎるだろうとか思うのだけど、その前に斎藤由貴の変形ツン→デレ展開(転向)が前フリとしてあって――この部分の斎藤由貴の表現力はすごいと思う――さらに、かなりひねった形での生徒たちの「怒涛の恋愛」展開(様々な転向)があって、満島ひかりの「転向」はそのような「空気」のなかでなされるので、「空気」に紛れてそのベタさがそれほど気にならない感じになる。)
(「マンハッタン…」では、人物たちの関係を――勘違いも含む不完全な形だけど――メタ的に把握するマスターが、メタ的視点から状況に介入する形になっていて、マスターはいわばドラマの中枢という機能があったのだが、「ごめんね…」では、その役割は縮小されてドンマイ先生に引き継がれている。ドンマイ先生はSNSによって生徒たちの関係をある程度は把握し、それを通じて関係にある程度は介入可能だ。とはいえここでは、その役割は状況への介入というよりは、観客に対する状況の説明という感じになっている。)
(「マンハッタン…」でも「ごめんね…」でも、登場人物たちはあきらかに形式的に操作されている。「マンハッタン…」のマスターは、登場人物の一人でありながら、登場人物たちの関係が形式に支配されていることに気付く。「ごめんね…」には、いまのところそのような人物は現れていない。菩薩は、すべての状況を把握しているのかもしれないが、主人公に語りかける以上の介入はしていない。しかしおそらく、このドラマでは、前提となるお約束――世界の設定――それ自身が書き換えられてゆくという展開になるのではないかと予想できる。)