仲俣暁生さんの記事(http://d.hatena.ne.jp/solar/20060924/p1)を読んでからなんとなく気になっていた米澤穂信氷菓』を読んでみたら意外に面白くて、『愚者のエンドロール』、『クドリャフカの順番』と、「古典部」シリーズ三作をつづけて読み、「小市民」シリーズの一作目『春季限定いちごタルト事件』まで読んだ。驚くべき、とか、凄いといったような作品ではないのだけど、一見、ゆるゆるのライトノベル系のキャラクター小説のような語り口を真に受けて読んでゆくと、「侮れない」と唸らされるところまで連れてゆかれる。やっていることは、古くさいとも言えるような古典的なミステリなのだけど、例えば『氷菓』で、ちょっと生真面目過ぎるとも思われる探偵的な知による探求が、今、この場所に存続しつつも見えなくなっている「古層」を浮かび上がらせてゆく過程を読むと、ああ、ミステリって、事件の派手さとかトリックの巧みさとか、あるいはメタフィクション的な形式性とかじゃなくて(そういうものだけではなくて)、こういうことなんだなあ、と納得させられるのだった。
氷菓』のはじめの方を読んでいる時は、なんでライトノベルの学園ものって判で押したように同じようなキャラクターや設定ばかりなのだろうか、「古典部」って結局「SOS団」じゃん(どっちが先かは知らないけど)、とか思ってうんざりしたのだが、いかにも典型的なキャラクターだと思われた人物たちが中盤くらいになるとぐっとその厚みを増し、ゆるゆるでまったりな展開は、後半なにるとやや深刻な「苦み」が射しこむ。始めの方でうんざりしつつも、ある程度まで読み続けたのは、なんといっても冒頭の「姉からの手紙」がすごく魅力的だからなのだが、この、外側から介入する「姉」の力に支えられつつも、一人の女の子の「外傷的な過去」が、集められた資料の積み重ねと直感の力によって「歴史(過去からの呼びかけ)」へと結びついてゆく過程は、(無茶苦茶大げさに言えば)フロイトの「モーセ一神教」みたいだとも言える。ミステリが、メタフィクション的な形式を持つ時、しばしばその世界は、人物の内面世界へと閉じられてしまう傾向がある。この作家が、あくまで古典的なミステリを指向し、探偵的な知性を丹念に組み立てることは、青春もののミステリにありがちな、内面世界への過度なこだわりへと落ち込むのを防ぎ、視線を世界へ開かせ、世界の声を聴くことを可能にする働きがある。(例えば、記述トリックのような、あらかじめ世界を歪ませるような、トリックのためのトリックは避けられている。おそらくそれは意図的で、『愚者のエンドロール』では、いったん記述トリック的な「解決」が「映画」という表象の次元では採用されるのだけど、現実的な次元では、それはひっくり返される。)このことが、キャラクター小説ではなく、登場人物の(実存的な軋みだけでなく)成長を描くことを可能にするのだろう。
『春季限定いちごタルト事件』がまたくせ者で、一見するとほんわかとしたかわいい連続もののミステリにもみえるのだけど、取りようによっては、主役の二人のキャラクター設定は西尾維新的キャラクターをさらにもうひと捻りさせているとも言える(次第に「探偵」であることに目覚めてゆく、成長ものとしてはオーソドックスな展開の「古典部」シリーズのホータローに対し、「小市民」シリーズの小鳩や小山内は「探偵」であることや、探偵的(自己言及的)饒舌の嫌らしさに自覚的で、それを抑圧しようとしている)し、しかしここでもキャラクター的な設定は物語の進行のなかでブレをみせつつ、少しずつ厚みを増してゆく(捻りを加えられているとはいっても、ここでもやはり人物の「成長」が問題とされている点はかわらない)。この作品はミステリとしての面白さよりも、後半の(キャラクターの)展開の意外さに支えられているのだけど、そのなかで「おいしいココアのつくり方」の章はミステリとしてとても良くて、知性というものはこういう風に発揮されるべきものなんだなあ、と思うのだった。