国分寺switch pointで、末永史尚展「スタンダード」、新宿のギャラリー渓で、フナイタケヒコ展。
●絵画は何を根拠とし、何によって支えられているのだろうか。
例えばゴッホは、画家として生きたのは十年くらいのもので、その短い間に相当の量の作品を残している。常に描いていなければ自分を支えられないとでもいうような勢いで次々と手をつけられていったその作品のうち、「良い作品」と言えるものの率はそれほど高くはないと思う。ではぼくは、何をもって良い作品と判断し、何をもって良くない作品とするのだろうか。おそらく、「何かに触れている」ものが良い作品で、「何かに触れる」ところまで届かなかった作品が、それ程良くない作品なのだ。「何かに触れる」というのは抽象的な言い方だけど、そう言うしかない「何か」がゴッホの作品にはある。それは、ゴッホ後期印象派の画家だとか、そういう事とは別の何かなのだ。
例えば、どんなに天才的なバッターでも、全ての打席でボールを確実にミート出来る訳ではない。その日のコンディションの都合もあれば、相手投手や球種への得意不得意もある。「何かに触れる」というのは、ボールの芯をバットの芯で捉えるようなことだろう。バッティングの技術というのは、一面で野球という人工的に作られたゲームのルールのなかにあるものだが、別の面では、世界の物理的な法則のなかにあり、つまりそのルールの外へと(「野球」の外へと)開かれている。ストライクが三つでアウトになるとか、ゴロを打ってボールがファーストに返って来る前にファーストベースまでたどり着けばヒットになる、というのは人々によって決められたゲームのルール内のことだが、150キロのボールを投げるとか、そのポールを細い木の棒で捉えて遠くまで飛ばす、というのは、野球というルールの外にある、世界の法則そのもののなかにある。ゲームの規則のなかで、それを高度に洗練されたものにしてゆくことと、それとは別の次元で、とにかく「凄い事」が出来てしまうこと。150キロのボールを投げる人がいて、それを遠くまで打ち返すことが出来る人がいて、それを我々が観ることが出来るのは(そのような「質」が維持されているのは)、プロ野球という制度が世の中で存在して、存続しているからなのだが、しかし「それをすること(そんなことが起きてしまうこと)」そのものは、制度とは別の、この世界そのものに関することだ。(「それをすること」に達するには、野球というゲームの「技術」の積み重ねを媒介とする必要があるのだろう。)
芸術が、コミュニケーションでもメッセージでもないということは、150キロの速度で向かってくるボールの芯という一点を、バットの芯という一点で捉えて打ち返すことそのものは、コミュニケーションともメッセージとも関係がないということと同じことだろう。(それはコミュニケーションをすること、メッセージを発することを否定するのでも、それらと対立するのでもない。)人はただそれを観て驚き、自分よりもずっと大きいもの、ただ仰ぎ見るしかないような何ものかとしての「世界」を感じることが出来るだけなのだと思う。方法とかコンセプトとか形式とか技術とかは、そこに触れるためにこそある。(スポーツを例えにすると、何か、若々しくて、やたらと元気でなくてはそこに触れられないかのような調子になってしまうけど、そんなことはなくて、衰弱することによって初めて触れられる「何か」があるのは、当然のことだし、芸術はそれこそを示しているのかもしれない。)
●今日の空http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sora0928.html