ポレポレ東中野で上映中の『夏の娘たち〜ひめごと〜』にかんする、監督・堀禎一と主演・西山真来へのインタビュー「イメージは必ず超えられていく」(NOBODY)。
http://www.nobodymag.com/interview/natsunomusume/index.php
以下は、上記の記事の堀禎一監督の発言からの引用。引用の(1)の部分は、『東京のバスガール』と『夏の娘たち』とで共有されているところで、しかしそこに(2)の要素が加わることで『夏の娘たち』が生まれた、ということだろうか。
(1)《僕の場合、おそらく最後のフィルムによるプログラム・ピクチャーになるであろうピンク映画に携わってこれたからこそ、このようなシーンを形作ることの出来る幅広い年齢層とキャリアをお持ちの役者さんたちを知ることが出来たわけです。また、プログラム・ピクチャーであるピンク映画の場合、一本限りの企画のみではなく、同じ監督の作品で同じ女優さんに何本も出てもらうことは珍しいことではないし、異なる監督の現場で役者の皆さんが同じ組み合わせで、たとえばご夫婦役などでお仕事をされることも多い。必然的にお会いする機会も多くなる。そういう疑似撮影所みたいなところにピンク映画の強さってあると思うんです。プログラム・ピクチャーを撮るにあたっての基本的な姿勢って、そういう仕事をされている役者さんを信じることだし、映画を撮る側が、年齢、キャリアに関わらず、俳優さん、女優さんたちに育てられていると理解することですよ。プログラム・ピクチャーの徒弟制度、他業種にもあると思いますが、その経験が大切だなどとふざけたことを言っているわけではありません。むしろ弊害の方が大きいかも知れません。それに、キャリアのある先輩方のおっしゃることがつねに正しいとも思いません。人間的に、などとはさらに思いません(笑)。ただ、そういうふうにやっていれば、自分がその作品をつくる前に持っていたイメージは必ず超えられていく、それが気持ちいいんです。》
(2)《ともあれ、試行錯誤中なのでまだはっきりとは言えないんですけど、整音について言えば、もちろん川のシーンの台詞は聴こえなくてもいい位の気持ちで現場からやっています。加藤泰監督は同じような場面に遭遇したとき、川の底にござを敷き詰めて流れの音を低めて録ったというとんでもない努力をされていたと聞いています。ですから、そういうことについての敬意は持ち合わせているつもりですが、この場面はそういう態度から離れました。マイクの位置は比較的固定して、台詞が聴き取りづらかったら川の音ごと録音レベルを上げてしまうというやり方を取りました。川の音も台詞もつねに一定ではなく、ワンカットごとにレベルが違っていていいのだと。なぜならもともと映画のショットはカットごとに独立しているんだからと。そういうことを劇映画でやってみたかったんですよ。阿呆でしょう?(笑)》
《お通夜の場面にも似たようなところがあって、あそこは意外と車通りの多いところだったんですが、たとえばあるカットの終わりに車の走行音が入っちゃったとしても、いい具合の音の瞬間で切れば次のカットの頭が無音でも繋がるんですよ。もちろん、その場合、録音部だけでなく監督も現場で聞いていなくてはならないですけど。つまり現実をなぞらなくても、映画は映画の方法でカットを繋げることができる。これは確かに「天竜区」シリーズが気づかせてくれたことかもしれない。演技も同じことなんじゃないかな。場面と場面の繋がりだけを優先するのではなく、もっとメリハリつけた場合でも、そうでない場合でも演技のテンションをきちんと捉えさえすれば、カットごとに色合いを変えても、映画として繋げることはできるんだとようやく実感できたような気がします。》