2021-11-03

●お知らせ。11月25日(木)に、佐々木敦さんの最初の小説『半睡』刊行にともなうトークイベントを、佐々木敦さん、山本浩貴(いぬのせなか座)さん、ぼくの三人で、三鷹のSCOOLで行います。19時スタートです。

「はじめての小説と「小説」の終わり---『半睡』と、その他の話---」

scool.jp

●去年の11月27日の日記に『半睡』について、次のように書いた。

《ぼくがこの小説で最もリアルだと感じるのは、(「新人小説月評」にも書いたが)様々な仕掛けの隙間から聞こえてくる、濃厚な欠落の気配であり、語り手自身が、自分自身の語り---覚醒した意識---を制御できず、信用もできていないという感触だ(追記、周到で綿密な意識的企みと、意識に対する根本的な不信との、両方がある)。たとえば、内田百閒、鈴木清順山本直樹七里圭の作品を貫いている共通の場面(瀕死の状態にある人について、まだ望みがあるのではないかと会話している時に、どこからか出所不明の「駄目だよ」という声が聞こえてくる)について、話者=主人公はつぎのように書く。

「(…)けれども結局のところ、もっとも怖いのはやはり、それでもそれを言ったのは「私」だったのだという解釈ではないだろうか。私は、私でない私の酷薄極まる声を聞いたのだ。」》

文學界」の新人小説月評では、下のように書いた。

佐々木敦「半睡」(新潮)。フロイト『夢判断』七章の夢解釈に対するラカンの再解釈がある(『精神分析の四基本概念』五章)。息子を亡くした父親が遺体の隣の部屋でうたた寝して夢をみる。息子が父の傍らで腕を掴み「父さん、僕が火傷するのが分からないの」と責める。目覚めると、弔いの蝋燭が倒れて棺に燃え移っていた。フロイトはこの夢を、父は前意識で火に気づいていたが、息子と再会する夢が睡眠を長引かせた(夢による願望充足)と解釈する。対してラカンは夢こそが父を目覚めさせたとする。父には息子との関係において意識から排除された(記憶に回帰することのない)レベルの(死因にもかかわる)後悔があり、その関係の不調(現実)が「責める口調」として夢に入り込み父はその現実から逃れるために目覚めた。それは覚醒した現実(表象)の中では出会うことのない、夢という形のもう一つの現実であり、夢から覚醒への移行の中で「出会い損なうように出会う」ことしかできない意識の空隙としての現実である、と。

本作は小説の外(現実)にある日付、作品、出来事へ向かう多数の参照に満ちている。しかし、現実=覚醒への過剰な参照はむしろ記述とそれが依って立つ基盤としての現実とのつながりを危うくし、語り(記述)への不信を招く。話者が読者にとって信頼できないというより、話者自身が自分の記述(意識)を信頼できていない。

だがあからさまな隠蔽は隠蔽ではなく、解読可能な暗号は明示と変わらない。夢としての現実は、解読格子そのものを歪ませ瓦解させる力としてある。夢としてしか現れない現実があるとすれば、不眠とは夢=現実を剥奪され、(夢へと)目覚めることの出来ない宙づりの「目覚めへの過程(半睡)」を強いられることであり、目を見開いたまま現実を遮断されることである。半睡と不眠は反転して同値だ。夢としての現実は目覚めた意識(記述)にとっては空隙としてしか現れない。だが、半睡=不眠とは常に目覚めへと向かう過程にあることでもあり、意識(記述)は積み重ねられることにより「塗り残し」として空隙=現実の在処をあぶり出し、暗示することになる。》