●午後から吉祥寺で、3月13日のトーク(http://100hyakunen.com/?mode=f3#100313)のために、福永さん、樽本さんと打ち合わせ。お二人に、ぼくの最近の作品を観てもらうために、午前中は、アトリエで作品の写真をデジカメで撮り、ネットカフェでプリントして、文房具屋でファイルを買って、そして吉祥寺へ。相談の結果、ぼくのF30程度の大きさの新作(未発表)を、当日、三点くらい展示してもらえることになりました。あと、福永さんの「ここ」(「新潮」2007年12月)と「午後」(「新潮」2010年2月)との間に仕掛けられた複雑な関係の一部を分かってもらうために、両方の小説の書き出し部分がプリントとして配布される予定です。おそらく、磯崎さんの時とは、またちょっと違った感じの話が出来るのではないかと思います。
●福永さんの、A、B、C、Dと呼ばれる子どもたちの出てくるシリーズが、今年の夏前くらいに本になる予定だそうです。本としてまとまったかたちで読むことが出来れば、多くの人に、このシリーズがいかにすぐれたものであるかが理解されるのではないかと思います。福永さんは、本としてまとめたとしても、これはまだ「第一巻」に過ぎなくて、今後もこのシリーズはずっと書きつづけてゆくと言っていました。
●『人はある日とつぜん小説家になる』に収録した福永信論でも書いたのだけど、福永さんの小説には多くの仕掛けやたくらみが埋め込まれていて、それを解読することが「福永信を読む」ことだとされてしまいがちだけど、福永さんの小説の面白さは、そこにだけあるわけではなくて、A、B、C、Dのシリーズはまさに、仕掛けやたくらみの複雑さだけでなく、それを超えて「動いてゆくものたち(つまりA、B、C、Dたち)」の魅力によって成立している小説だと思う。
例えば、「全体(構造、構図)」対「部分(細部、粒子)」みたいな構図が退屈なのは、部分もまた、常にひとつの全体としてあらわれるということが忘れられているからだと思う。一人の人間という全体を、一つ一つの細胞というレベルに解体したとしても、見えてくるのは「一つの細胞」であって、それは「一つの全体」として細胞という機能を持ち、フレームを持つ。小説全体の構造ではなく、そのなかの一つの文に注目したとしても、それも、それ自体で一つの文としての構造をもつ。
しかし同時に、それ自体として一つの全体である「文」は、別の「一つ」である、他の文との関係をもち、文と文との関係-連結によって、「一つの全体」である文それ自身とはまた別の意味-イメージを発生させる。ある一つの文と、別の任意の一つの文との偶発的関係は、閃光のように、別の意味-イメージを生み出すが、そのようにして(トップダウンではなく、ボトムアップとして)積み重ねられた複数の文の連なりもまた、必然的にそこに文脈を発生させ、上位の「一つの全体」を生み出すだろろうし、その時は、一つの全体であった文が、下位の部分という位置に戻る。
このように、認識のフレームは常に動いている。我々が注目したものは、それに注目した時点で既に一つの全体(フレーム)であるが、それと同次元で並立する「もう一つ」との関係によって、上位の意味(文脈)がかたちづくられ、今度はその上位の意味(文脈)が、意味の「一つ」の単位となり、それと同次元の他の「一つ」たちとの間に、意味-文脈を形成するだろう。フレームは決して固定されず、拡大したり縮小したりするのだが、その時に注目しているものの単位が、常に「一つ」の全体であり、同時に(別の「一つ」との関係が可能であるという点で)部分でもあるのだ(認識されるものは常に地に対する図なのだから、「一つの全体」は、全体以外のものとの関係で成り立ち、少なくとも権利の上では、常にそれと同レベルの「もう一つ」があり得る)。
そしておそらく、そのような自在なフレームの拡大-縮小は、その過程で、それに伴って、多くのエラー、つまり、クラスとメンバーとの混同を生む。しかしこれは決してエラーではなく、我々の認識の必然のようなものであり、リアリティーの根源のようなものだと思う。言い換えれば、フレームの自在な拡大-縮小によってそこに紛れ込む「クラスとメンバーとの混同」というエラーのなかにこそ、目に見えない、捉えがたい、何か「動くもの」が、あらわれては消え去ってゆく形態が、紛れ込むのではないか。そこに紛れ込むのは、経験したことのないものの記憶であり、決して起こることのなかった出来事の痕跡のようなものなのだ。
福永さんの小説が実現している「動いてゆくものたち(つまりA、B、C、Dたち)」とは、そういうものたちであるように思う。