●制作。パネル+油絵具の作品のつづき。紙でも布でもない「板」に絵の具をのせてゆく時の違和感は、ぼくを少しだけ絵画的な手癖(目癖)から離れさせてくれるように感じる(絵画的手癖を「否定する」のではなく…)。
●「日本の古本屋」で買った『フィロソフィア・ヤポ二カ』(中沢新一)が届いたので、「プロローグ」と「第一章 微分的練習曲」の部分を読んでみた。これはすごく面白そう。
●『競売ナンバー49の叫び』は、一方で「トリステロ」をめぐるパラノイアックな偽史の構築についての小説なのだが、もう一方で、そのようなパラノイア的妄想の根拠(素材であり動因でもあるもの)でありつつも、決して偽史-物語という「形」としては取り出せない(形となる過程で消えてしまう)、マイナーなネットワークそのもの(ネットワーク上を明滅する微細で匿名的な運動)の感触についての小説でもあって、その相容れない二つのものが裏表にあるところが面白いのだと思う。
とはいえ、ぼく自身の傾向として前者よりも後者に惹かれるところがあるので、最終章は少し退屈で、その前の五章で、主人公がサンフランシスコの夜をさまよう場面に最も強く惹かれる。
例えば次のような短い場面に、この小説のすべてがあるようにさえ感じられてしまう。
《バスのなかではトランジスタ・ラジオが一晩中、トップ二〇〇の下位の曲を流していた。ヒットの可能性もなく、その詞もメロディも、まるで一度も歌われなかったように死滅してゆく歌たち。バスのエンジンの呻くような騒音のなかで、一人のメキシコの少女が、その一曲をキャッチして一緒にハミングしていた。それを憶えて、歌い継いでゆくのだろうか。見ればその子は、窓に息を吐きかけ、爪の先でラッパ模様とハートの模様を描いている。》
もう一つ、この小説のなかで最も好きな部分。
《ゴールデンゲート・パークで彼女はパジャマ姿の子供たちが輪になって遊んでいるところに出くわした。一緒に遊ぶ夢を見てるの、と子供たちは言った。でもこの夢は、目が醒めているのと同じだよ、だって朝、目が覚めたとき、まるで一晩中起きていたみたいに疲れてるんだ。この子たちは昼間、母親たちに外で遊んでいると思わせておいて、近所の家の戸棚の中、樹上にこしらえた台や、生け垣をくり抜いて作った秘密の穴蔵で、夜の睡眠を補っている。夜は真っ暗でも全然こわくない。みんなで輪を組めば誰も入り込めないから、想像上の焚き火が燃えてさえいれば、他に何も必要ない。みんな郵便ラッパのことは知っていた。でもエディバが舗道で見た、チョークで描いた遊びのことは知らなかった。縄跳びの時はラッパは一つしか描かないの、と小さな女の子が説明した。輪と、三角と、ミュートのところに、みんな順番に入ったり出たりするの、そのときこの歌を歌うのよ。


トリストー・トリストー、ワン・ツー・スリー
ターニング・タクシー、海こえて……


「ターニング・タクシー? トゥルン&タクシスじゃなくて?」
そんなの聞いたことないよと言って、みんな不可視の焚き火で手を暖め始めた。仕返しにエディバは、彼らの存在を信じるのをやめた。》