●子供の頃は、はじめてあった相手でもすんなり仲良くなってしまうことがあった。ただ、偶然に会った相手とすぐ友達のようになっても、大人のように意識的に連絡をとったりしないから、どんなに仲良くなってもまた会う機会がなければそのままになってしまう。子供同士の関係は、同じクラスだとか、親同士が仲がよいとか、持続的に会う機会があるという外的要因に強く依存する。
すごく意気投合したのに、その後に会う機会がなかったためにそれきりになってしまったという記憶がいくつかある。学校からの帰り道になぜか見知らぬ子供と仲良くなり、家に帰ってから母親に興奮気味に「新しい友達ができた」と言ったりしたものの、その相手が何年何組の誰なのか聞かなかったため、二度とその子と遭遇することはなく、それっきりになってしまったことがある。よほど気が合ったのか、そのときに「新しい友達」ができたことがとてもうれしかったことを憶えている。
学校の帰り道に会ったということは、おそらく同じ学校に通っていて家も遠くないはずだから(家のかなり近くまで一緒に帰ってきた)、また会ってもよさそうなものだけど、二度と会わなかった。その時のぼくは、またすぐに会えるだろうと思っていたし、その後しばらく、学校でも、帰り道でも、その子を探していたが、会うことはなかった。
ただそうなると、「その記憶」自体の真偽の自信がだんだんなくなってくる。そんな誰かは本当にいたのか。妄想が記憶に紛れ込んだだけではないのか。その記憶もその誰かも、自分の頭がつくりだしたものなのではないかと思えてくる。記憶がやけに生々しいことが、逆に不信に感じられもする。だがそのことがまた、会うことのできない「新しい友達」の存在感を強くする。
昔、近所に、市内に工場がある大手メーカーの社宅地帯があった。かなり広い一帯に、そのメーカーの工場で働く人たちが家族で住む社宅が並んでいた。電車の車両のように連なる長屋状の平屋の社宅が何列にも並んでひろがっていた(高度成長期的な風景)。その社宅地帯の隅の方に、なぜかそこだけ五階建てのマンションのような建物が二棟建っていた。当時、近所ではそのような高い建物は珍しかった。その建物も同じメーカーの社宅だ。
その五階建ての建物の、かなり上の方の階の階段に、その時に初めて会って親しくなった誰かと隣り合って座って下を見下ろしているという、小学校低学年くらいの時の記憶がある(この誰かは、上に書いた学校帰りに出会った誰かとは別人)。その時に隣にいたのは、普段遊んでいる友達とは違う子供だったはずだ。その五階建ての建物に住んでいる友達は一人もいなかった。
どのような経緯でそこにいたのか、そこで何をしていたのかは憶えていないが、そこにいて下を見下ろしていたことと、その時に隣にいた誰かに強い親しみを感じていたことを、つまり「そこにいたときの感じ」を憶えている。
今、そのあたりは社宅地帯ではなく普通の住宅地になっているが、五階建ての二棟の建物だけは残っている。でも、その建物のなかに入ったことは、後にも先にもその時しかない。そのあたりを、高い位置から見下ろしたのはその時だけだ。
五階建ての建物の前を通りかかったときに、そのことを思い出した。