2022/09/05

●これは美大受験生あるあるだと思うが、『世界は時間でできている』(平井靖史)の第四章「身体とシンクロする世界」を読んでいたら、「回り込む空間が描けていない」という話がでてきて、懐かしく思った(平井靖史は美大出身)。

《私が受験のために美術予備校で木炭デッサンの修行を始めたころの話である。自分としては、構図、オブジェの配置、明暗の再現度には自信があった。実際、かなり正確に描けていたはずである。そこへ講師がやってきて、「壺の右側から回り込んでいる空間が描けていない」と言われた。》

《それを言われた時点での私には、講師に見えていて自分に見えていないものが何であるのか分からなかった。というより、そんなものがそもそも「見える」ということが理解を絶していた。しかし、面白いことに、木炭で出せる色味の幅が増え、試行錯誤を重ねるうちに「回り込んでいく空間」がちゃんと描けるようなり、そして見えるようになった。》

この「回り込んでいく空間」とは、ぼくの解釈では、物には、見えていない後ろ側にも形があり、その形をうけ入れている空間があるということを、見えている(描いている)物の前面だけをみても感じとれるように描く、ということだ。これは(受験用の)デッサン上達のけっこう大きなステップ(超えなければならない壁)の一つだと思うが、最初は、一体何のことを言っているのか分からない、となる。だから、無意味な精神論とか、理不尽なマウントをとられているように感じるかもしれない。

(技術の習得には、理不尽としか思えないことを、とりあえずいったんは飲み込むしかないという局面が多々あり、事後的には納得できるとしても、それはいっけんハラスメントと区別がつかない---ゆえに実際にハラスメントにつながりやすい---という難しい問題がある。)

ぼくの解釈では、これは「物の形を輪郭線で見ない」ということと深くつながっている。物は、背景の上にシールで張り付けられたようにあるのではなく、空間のなかに膨らみをもった形で存在している。だから、物の後ろ側にも形があり、背景(たとえば壁)との間に距離もある。まずはこのことを強く意識することが重要だが、具体的には、物のエッジにあるのは、輪郭線ではなく、見えない向こう側に向かって刻々と変化していく形である、ということを意識し、エッジ付近の「向こう側へと刻々と変化していく形」を意識してしっかり(繊細に)描くことで、その後ろ側にも「刻々と変化する形」があり、空間があることを目が感じられるような状態にできる。これは「回り込んでいく空間を描く」という課題に対するぼくなりの解決で、一つの例でしかないが。

(もちろん、絵画は画面全体で一つの空間を表現するのだから、これだけではダメで、全体としての構築やバランスをうまく作ることが必要なのだが。この場合、背景=壁と、接地面=床あるいは台と、壺との「関係」を意識的に描くことが必要となるだろう。物だけでなく関係を描く---これはモチーフの配置を形として正確に再現することとは違う---というのが、どういうことなのかも、最初はなかなか分からない。しかし、やっていればそのうちに分かるようになる。この「やっていれば分かるようになる」というのが、一体どういうことなのかがよく分からない。)

たとえば、ルネサンスの絵画では、マザッチオは「回り込んでいく空間」を意識的には描いていないが、レオナルド・ダ・ヴィンチははっきりと意識的に描いているように思う。マザッチオは、遠近法的空間は使っていても、「人物の背面(を感じさせる空間の回り込み)」はあまり意識していないように見える。マザッチオが生まれたのが1401年で、レオナルドは1452年。この五十年くらいの間に、絵画における空間意識のけっこう大きな変化があったのではないか、とぼんやりと思っている。それより後の世代、ミケランジェロラファエロでは、当たり前のように「回り込んでいく空間」が意識されているように思う。