2022/09/25

●『初恋の悪魔』、最終話。いい最終回だった。連続ドラマの最終回というものの「完璧な解」の一つなのではないか。ぼくが観ている限りにおいてだが、坂元裕二作品でも最高の最終回ではないかと思う。最後の最後まで緩むことなく攻めていて(どこまでも次々とネタが投入される)、それでいてピタッときれいに着地している。

(『カルテット』も「大豆田…」も、最終話では、きれいに着地するためにやや「置きにいく」感があったけど、『初恋の悪魔』では、最後の最後まで押し切っている感じ。『モザイク・ジャパン』の最終話も素晴らしかったが、こちらは、最終話に至るまでの流れに、少し信用しきれない不安があった。)

●これは、良くも悪くもということだと思うけど、テレビの連続ドラマというものの新しい地平を開いてしまった感じがある。単純に「密度」ということだけをみても、週一回放映されるドラマとしては異様な密度で、それを実例として示してしまったのだ。変な例えだが、バイト先で、どう考えても時給と釣り合わないようなすごい働きをしてしまう人が一人いると、その人を標準とするとまではいかないとしても、全ての人がその人の働きと比べられてしまう。そういうことが起こってしまっている。密度に差がありすぎて、他のドラマがスカスカに見えてしまう(そのテンプレの「段取り」かったるい、みたいに感じてしまう)。

●ドラマ全体を通して面白かったのは、最後の方にチョロッと出てきた奴が真犯人という、ミステリとしては禁じ手をあえてやっているところ。途中の段階で、誰がどのように知恵を絞って考察しても、決して犯人を当てられない。なぜなら犯人は「まだ存在していない」から。「最後にチョロッと出てきた奴が真犯人」でいいならば、途中の段階で何をしても大丈夫。好き放題やった、その諸条件に合わせて事後的に(適当に)犯人像を作って、最後にチョロッと物語に絡ませればいい、ということになってしまう。謎解きミステリとしては全く不誠実でフェアではない。こういうことをあえてやるのは、作品自体が「これはミステリではない(謎解きに大した意味はない)」と宣言しているということだろう。

(坂元裕二の脚本は、「多くの伏線が埋め込まれている」と考えるより「多くのミスリードへ誘う細部が含まれている」と考える方がいいのではないかと思った。たとえば、フックとなるような細部が100あるとして、そのうちで伏線として使用される―回収される―のは20くらいで、残りの80くらいは、結果としてミスリードを誘う細部となるという感じ。つまり、重要な問題は「謎」にはない、徴候が必ずしも「謎の解」へと収束しない、ということ。)

●最終話で一番すごいと思ったシーンは、林遣都伊藤英明が対峙する緊迫した場面で、それを遮るように伊藤英明スマホからLINEの通知音が途切れなく聞こえるところ。ドラマ全体のクライマックスとも言えるようなこんな緊迫した場面に「笑い」を入れてくるのか(しかも、相当しつこい「笑い」だ)、とびっくりする。観ているこちらの感情も分裂するというか、どういう気持ちで観たらいいのか分からなくなる。「緊迫」と「笑い」という相入れないものが、混じりあわないまま同居するという、この作品を象徴するような場面だが、こんな場面は映画とかでも観たことがない(右目と左目が分裂するゴダールの3D映画くらいか)。そしてこの「笑い」のしつこさがそのまま、菅生新樹の狂気の表現でもある。この場面を演出した水田伸生は、脚本を読んだ時には本当にこれを成立させられるのかと頭を抱えたのではないか。

(観る側の緊張を高めてくるような緊迫した場面に、その緊張を弛緩させるような笑いの要素が同時に走っているので、息を吸っていいのか吐いていいのか分からないような感じで、うっ、うっ、うっ、となってしまう。)

緊張(緊迫)と弛緩を、「緊張→弛緩」というリズムとして用いるのではなく、両方同時にはしらせる。あるいは、ものすごく細かいリズムでくるくる反転(逆転)させる。ドラマの終盤ではしばしばそういうことが起こっているが、その頂点のような場面だと思う。

●菅生新樹たちに最初に殺されてしまった少年は、少年時代の林遣都と通じるところのある(つまり同類であるような)少年だっただろう。どちらもサラッと流すように描かれるが、林の少年時代の描写のエグさと、(伊藤英明の声によって語られる)菅生新樹の語りの無自覚な残酷さから、集団というものに対する坂元裕二の嫌悪が感じられる。少年時代の林は、同調圧力によって(精神的に)殺されてしまってもおかしくなかった。だが同時に林は、五話の山口果林と通じ合うものがあり、周囲や社会を恨んで理不尽に人を傷つけてしまうような人になったかもしれない可能性も持つ。おそらく林は、自身がそのどちらの可能性も有していることに自覚的であろう。自分自身の危うさ(そうであり得たが、たまたまそうはならなかったにすぎない)に対する自覚が、彼の他者への、倫理的で抑制的な態度を作っているようにみえる。

しかしそのような林が、最終話においてそこを踏み越えようとする(まず柄本佑が踏み越えようとし、次に安田顕が踏み越えようとした一線を、最後に、その二人を抑制しようとした林が、自ら踏み越えようとする)。自ら悪魔となって悪魔を殺すという決断をする。彼が自ら悪魔とならずに踏み留まったのは、被害者となった彼の友人たち(特に松岡茉優)が「たまたま」死んでいなかったからだ。ここでも林は、そうであり得たが、たまたまそうならなかった、のだ(この点については『MIU404』の綾野剛と同じだ)。しかしそのことは、彼が「悪魔」となった世界も十分にあり得たということを示している(しかし、菅生を刺そうとする林には明らかな「ためらい」が見て取れるので、もしかすると友人たちが死んでいたとしても殺さなかったかもしれない)。

●一話から最後までずっと一貫して、林遣都の家のリビングの窓は開いていて、カーテンが常にうっすら揺れている(だからこのドラマは、夏から秋にかけてが舞台でなければならなかった)。これは、満島ひかりの「風の強い夜が好き」というセリフと繋がっていて、つまり林遣都満島ひかりと共通するような性質を持った「外を吹く風と親しい」人物であることの徴しであり(林の場合は「微風」であるが)、だからこそ松岡茉優の第二人格が彼に惹かれる、ということなのだが、その、常にカーテンに隠されていた「開かれた窓」が、最後の最後になって林遣都松岡茉優を繋ぐゲートになる(ここを潜った先は半ば夢の世界)、というのは、いかにも洒落ていると思った。

(満島ひかりは、目を閉じた松岡茉優に―つまり、実際は松岡1である人物を松岡2と見立てて―語りかける。満島の前に松岡2は現れない。ならば、林遣都の前にも、実際の松岡2は現れない、と考えられる。だから二人の場面は夢だと考えるのがいいと思う。しかしそれを逆から考え、満島の主観の中には確かに松岡2が現れたのだ、とするならば、林の前にも、松岡2が確かに現れたのだと言える。これは、「わたしの心の中には今も松岡2がいる」というのとはちょっと違う。心の中にではなく、実際に目の前に―たとえ、それが夢やまぼろしや単なるイメージであったとしても―現れることが重要なのだ。)

ただ、林遣都が街中で松岡茉優を見かける場面があるが、この時の松岡は、明らかに松岡1ではないように見えた(表情や歩き方が違う)。ここで林が隠れなければ、松岡2に会えたのかもしれない。ただしその場合、(仮に夢だとしても)二人の素晴らしい別れの場面はなかっただろう。

(追記。これを経験した本人=鹿浜鈴之介にとっても、夢とも現実とも決定できないような出来事として描かれている、ということだと思う。たとえ現実だとしても夢としか思えない、たとえ夢だとしても現実としか思えない、そのような―生活の流れからはみ出した―経験として、この夜の散歩の場面は造られている。)

●最後まで観ても、このドラマで最も印象的だったのは、松岡茉優佐久間由衣の撃たれた場所が全く同じだということと、ゴマシオ頭だった伊藤英明の髪が、八話でいきなり黒く染められていたことだ。この二つの点において、驚くべき作品だと思う。

(この細部の「意味」は作中では全く語られないが、こんなことが偶然に起こるはずはなく、意図的になされた「表現」であるはず。)

●唯一の不満は、佐久間由衣をイマイチ生かしきれていない感があること。『カルテット』の吉岡里帆並みの活躍を期待していたのだが…(ぼくの頭のなかでは、『カルテット』の主役は吉岡里帆だ)。

林遣都と仲野太賀と松岡茉優が、林の家のリビングで、テレビニュースをタブレットで観ている場面があるが、これは、さんざん「視聴率が低い」と言われ続けたことへの皮肉なのではないか。林遣都の家にも、仲野太賀の部屋にも、そしておそらく松岡茉優の部屋にも、テレビはなかった(そういえば安田顕は、わざわざ銀幕スクリーンにプロジェクターで投射させてテレビニュースを観ていた)。

●追記。高度な完結性を持つ『初恋の悪魔』に続編もスピンオフもあり得ないと思うのだが、一つ気になるのが、7話に出てきた、三つ目の殺人事件の容疑者に仕立て上げられてしまった大学生インフルエンサーの女性(あかせあかり)だ。彼女の孤独を、坂元裕二だったらどう描くのかを、ちょっとみてみたい感じはある。事件とは関係ないところを、サラッと短めで、主役の四人は出たとしても背景を通り過ぎるくらいの感じで。