2022/08/01

溝口健二の『楊貴妃』を観た。セットや美術、衣装などにかなりお金をかけていると思われるが、それなのに、歴史大河ドラマのようにはせずに、ただ、皇帝と楊貴妃の関係だけに絞って描き、90分の、短めの、あっさりした小さな映画として仕上げるということができるのは、巨匠だからこその贅沢なのだろう。

とはいえ、脚本のレベルであまりに通り一遍であり過ぎるように思った。「あっさりした」と書いたが、画面のレベルでは、実にこってりした、贅沢な映画だ。特に、祭りの群衆シーンや、終盤の会食シーン、楊貴妃の死の場面などは、お金をかけているという意味でも、演出がすばらしいという意味でも、こってりと豪華だ。それなのに「あっさり」と感じられるのは、お話や展開の「通り一遍」さからくる印象なのだと思う。

歴史ドラマにはせずに、楊貴妃と皇帝の関係だけに絞るというのは、それこそ溝口の資質に合っていると思われる。しかし、絞ったのだから、そこはもうちょっと突っ込んで描こうよ、と思ってしまった。

というか、一方に楊貴妃と皇帝の(立場や地位、出世欲などをこえた)関係があり、もう一方に、楊貴妃を利用して出世しようともくろむ楊一族や安禄山などがいる。さらに、楊一族の横暴に怒る人民たちがいるという構図なのだが、この三つの要素がほぼ絡んでいない。まず、楊一族や安禄山のもくろみがあり、そこから楊貴妃がピックアップされる。そして、楊貴妃と皇帝が(楊一族のもくろみとは異なるところで)信頼関係を築いていく。するといきなり、楊一族の出世と横暴の場面となる。そしてまたいきなり、人民たちが怒っている。

歴史ドラマではないのだとすれば、人民たちの怒りは最後に唐突に出てくればよいと思うのだが、楊貴妃と皇帝とが信頼関係を深めていくのとは裏腹に、楊一族の横暴がはびこるというさまは、もう少しちゃんと、両者に相互作用(力の差し引き)が働いているような形で話を組み立てないと、溝口の映画にならないのではないかと思った。

(頭が固くて役割に固執する人やぎらぎらした出世欲を嫌い、だからこそ楊貴妃と親しくなったはずの---音楽好きの---皇帝が、なぜ出世欲の塊のような楊一族の人々を重要な地位に登用したのかまったくわからない。それに、楊貴妃と皇帝の、ある意味で純粋な関係が、出世欲や権力欲丸出しの人たちとの関係なかで、どのように壊されていくのかという、具体的な過程がわからない。)

●他の人の感想をみるためにツイッター検索で「初恋の悪魔」で検索すると、『初恋の悪魔』のセリフが聞き取りにくい(字幕が必要)とか言っている人がたまに(ちょこちょこ)いるのだが、え、と思う。ぼくにはびっくりするほど明瞭に聞こえるのだが(視聴環境の問題なのかな?)。こんな複雑なセリフが---柄本佑など、小声でボソボソ、しかもすごい早口だったりするのに---こんなにちゃんと聞き取れて、俳優の技術マジすげえなと思うくらいだ。むしろ、台本を読んでいるかのように完璧に「声」が「言葉」として聞き取れ過ぎてしまうことの方が(俳優の技術すげえと思うと同時に)問題かも、とさえ思う。

(まあ、坂元裕二のドラマはセリフがちゃんと聞き取れた方がいいとは思うが。)

青山真治の『サッドヴァケイション』など、方言ということもあるが、ごにょごにょ言ってて何言ってんのかほとんど分からない場面がいくつもあるが(音響的にも、セリフを意図的に不明瞭にしている感じもあって、やり過ぎ感もあるのだが)、それでもだいたいどんなことを言っているのかは「調子」や「抑揚」で分かる(浅野忠信は意識的に「ごにょごにょ」言っていると思う)。『Helpless』でも、「くらわすぞ、きさん」みたいなセリフは、最初何言ってるのか分からなかった(ヴァーッ、とかグゥーッ、と変わらない感じ)。それでもそれが「威嚇」の言葉であることは分かる。セリフは言葉であると同時に、声であり、息であり、抑揚であるので(声=表現、息=表現、抑揚=表現でもあるので)、きちんと(「言葉」として)聞き取れるようにすることに気を遣いすぎるのもよくないのでは、と思う。

(テレビドラマでは「言葉がちゃんと聞き取れること」みたいな制約は大きいのかもしれない。しかしそれが「当然の前提」のようになるのは違うのではないかと思う。)