●わたしが経験するすべてのことがらに「わたし」が混じっている。「わたしにはそう見える」「わたしはそう感じる」等々。しかし同時に、わたしの経験するどんなことがらでも「わたしだけ」で出来ているものはない。わたしの経験するすべてのことがらは、わたしとわたし以外のものとの関係によってかたちづくられる。わたしとは、「わたしが経験することがらの総体」であるとすれば、すでにわたしの半分はわたしではない。
もっと言えば、わたしと「わたし以外の何か」が関係する時、その関係を可能にする場(地・文脈)が必要となる。場は、関係より先に既にある場合もあるし、関係の発生によって場も同時に、新たに生成することもあるだろう。おそらく後者のことを出来事という。
そうすると、わたしとは、「(わたし+わたし以外の何か)/場」という一つのフレームのなかの諸機能のうちで、「経験」を担当するパーツであるということになる。わたしのどのような経験(受動性)も、能動性も、このフレームにとらわれて、このフレームの内にある。
わたしの行動に何らかの意味があるとすれば、それによってフレーム(地・文脈)の拘束とは別の関係を成り立たせることだろう(それは、今・こことは別の潜在的フレームを黄泉の国から呼び寄せるということになる)。そして、経験が関係の表現であるとすれば、「(潜在的フレームという背景を呼び出す)別の関係」は「別の経験」を生むはずだ。芸術が「感覚可能なもの」としてある意味はそこにあるのではないか。
芸術の経験は「外のひろがり」を垣間見せる。しかしこの「外」とは、「日本は狭いから世界を見ろ」、「永田町の論理ではなく生活者の目線で」、「そんなの狭いアート業界の文脈でしか意味ないことじゃん、そうじゃなくて…」というたぐいの外ではない。そのような外は既にフレームの拘束の内にある。「フレーム内の外」への誘惑は罠だ。そうではなく、フレームの底が抜けるようなこと。それはそのまま、わたしの底が抜けるということだ。
このような「外」とは、どうしても「(常識的な意味での)現実」に対する「想像的なものの地平」という形をとることになるのではないか。そして両者は実と虚の関係にあるのではなく、どちらも「現実」だが、現実の二つの相である、と言えるのではないか。そう言えなければ、芸術はしょせん趣味のものということになってしまう。