●朝カルの西川・保坂講義で、西川さんが『魂のレイヤー』という本のタイトルの由来を語ったところが気になった。
グランドキャニオンに行った時、風景が薄っぺらなつくりものに見えて、まったく感動できなかった。人間の目はこんなに大きな空間を感じるようにはできていないのだと気づいた。その時、視差による立体視を初めて実現(実感)した猿のことを考えた。馬や犬のように、両目が顔の側面についた状態から、だんだん顔の中央に寄ってきて、ある時、ある猿の感覚のなかに視差による立体視が生じた(その立体視はおそらく森の中の猿に生じたと思われるので、森の中の空間のスケールに合っているのだろう)。その時にその猿に生じた立体感のクオリアを、今の自分も感じているのだ、と。そのようにして、様々な段階の生物において「初めて」生じた、様々なクオリアのレイヤーが重なって、今のこの自分ができあがっているのだ、と思った。これはとても面白い。その時に考えたことを忘れないために、「魂のレイヤー」が吉本隆明論のタイトルになり、本のタイトルになった、と。
●それとはまた別の話だけど、これはぼくが考えたのではなく、どこかで読んで気になって憶えているのだが、どこで読んだのか忘れてしまった話なのだけど、人類はいつから、セックスと妊娠の因果関係に気づいていたのだろうか。動物は、子孫を残すという目的によって生殖行動をするのではなく、あらかじめセットされた本能に従って、やむにやまれぬ衝動のなかで生殖行為をし、その結果として子孫ができる。人間もそうだったはずだけど、どこかの段階で、妊娠するのはセックスのせいなんじゃね、と気づいたはずだ。でも、誰か天才的な個体がそれに気づいたとしても、それだけではその個体が死ぬと認識も消える。その認識が共有され、存続するのはけっこう大変なことだ。
(1)何かの原因によって、何かの結果が引き起こされるのだというように、物事の間に因果的関係性を見いだす思考法が生まれていること。(2)ある程度、長期に渡って記憶が持続し、その記憶内容同士の関係を形式的に操作するような思考が可能であること。(3)ある個体に生じたある認識が、集団を形成する別の個体たちに伝達され、共有されるという体制ができていること。(4)ある集団内で共有された認識が、次の世代に受け継がれて、共同体の記憶として持続する体制があること。
ざっと考えて、この四つくらいの条件が揃わないと、セックスと妊娠との因果関係が社会的に共有されるには至らないのではないか。(1)と(2)が、因果関係発見の条件で、(3)と(4)が、その認識が拡散、定着する条件。特に難しいと思われるのが(2)の条件で、受精から出産までの十ヶ月も離れている出来事の間に因果関係を見いだすのはなかなか難しいと思われるし、太古の人間がどの程度頻繁にセックスしていたのか知らないが、(他の動物とは異なり)セックスが日常的に、頻繁に行われていたとすると、それに対して妊娠、出産は希な出来事であろうから、頻繁な出来事と希な出来事の間に因果関係を見いだすのは難しいのではないか。
あるいは、人間は本能によってはじめからその因果関係に気づいていたのだろうか。人間における社会性だけでなく、たとえば猿の共同体も血縁関係を軸につくられている(オスのボスザルが群のすべてのメスザルを独占する、とか)のだし、ほ乳類には親による子の生育(愛情)という行動があらかじめセットされているのだから、生殖行為と子孫の発生の因果関係は、動物的なレベルでなんとなく察せられ、常識的に共有されていたということだろうか。セックスと出産との因果関係の発見は、ピタゴラスの定理の発見とは根本的に異なる、ということだろうか。
●また別の話だけど、今の人間よりもずっと自他の境界が未分化な状態で生きていたと思われる太古の人にとって、歳をとって目が悪くなることと、世界の状態そのものが曖昧になってゆくこととの区別がなかったのではないか。「歳のせいか最近、眼が悪くなったなあ」ではなく、「最近、なぜかずっとうすぼんやりした霧が晴れないなあ」と感じていたのではないか。あるいは、歳をとって体が動かなくなることを、「世界というゲーム」そのもののデフォルトの難易度が上がったように感じていたのではいか。