●「落葉」の展示が今日までだということなので、台風を気にしながら国立近代美術館まで菱田春草展に行った。二時間かけて竹橋まで行き、菱田展だけ観て(常設展をのぞく時間もなく)、どこにも寄らずにまた二時間かけて帰った。
(いつも思うことだけど、帰ってきて図録を広げると、そこにあるものと、自分が今観てきたと思っているものの感触とがあまりに違うので、自分が観たと思ったものの方が幻で、今見ている−−図録に定着されている−−ものの方が正しいのではないかという不安に襲われる。襲われるというか、その不安に負けて図録の方に加担してしまいそうになる。いや、というか、今まさに、図録の方に合わせて記憶を修正しつつあるのではないかと不安になる。)
磯崎憲一郎さんから、今度出た『金井美恵子自選短編集』で解説を書いたから読んでよ、というメールをもらって、本を探してみてはじめて気づいたのだけど、市内でいちばん大きい本屋でさえ「講談社文芸文庫」は置かれていないということを知って衝撃を受けた。
●昨日の日記の『基礎情報学』(西垣通)のまとめは、自分でもあまりうまくいっているとは思えないし、自分勝手にやり過ぎていて本の読解として正確でないところもあるので(たんに間違えているところもある)、補足として本文からの引用を置いておく。
《精確にいうと、「観察者」となりうるのはヒトという「生命体」ではなく、ヒトの「心(心的システム)」である。「心」とは「思考」を構成素とするオートポイエティック・システムである。ここで「思考」とは、ヒト個体の脳神経系に蓄えられた原-情報を物理的ベースとして成立する一種の一過性の出来事であり、言語表現に限らず多様な知覚的シンボルから構成されている。生命体とは異なり、心は物理的空間内の実体システムではないことに注目しなくてはならない。》
《原-情報は、情報の本質的部分を有してはいるが、誰にも精確に観察/記述できない存在である。われわれヒトが観察し、我々のシンボル体系(言語など)で明確に記述して初めて、原-情報は真の「情報」となることができるのである。基礎情報学では、記述された結果を狭義の「情報」と定義する。「それによって生物がパターンをつくるパターン」という定義はもともと「生命情報」とくに「原-情報」に対応するが、それはヒトによる観察/記述をへて、狭義の「情報」である「社会情報」の定義ともなる。このように、狭義の「情報」はヒト特有の存在であり、ヒトの観察/記述とともに出現する。そして同時に、生命現象というより、メディア現象的な特徴を強めてゆくのである。換言すると、広義の情報とは「生命情報」であり、そのなかの一部は「社会情報(狭義の情報)」に転換されるものの、残りの大部分は原-情報のままにとどまるわけである。》
《このように生命体内部の「原-情報」が狭義の「情報」となるには、観測者/記述者が不可欠である。すなわち、「情報」とは、生命体内部の「原-情報」「観察者」「両者の相互作用」という三者の関係のなかに立ち現われるものに他ならない。ここで、生命体内部の「原-情報」「観察者」「両者の相互作用」が、それぞれパースの三項図式における、対象、解釈項、記号にそれぞれ対応することになる。さらにそれは、観察者により何らかの伝播メディア上に記述(記録)されて初めて完全なものになるのである。記述表現は口頭の言表行為かもしれないし、書かれた言語テクストかもしれないし、何らかの図像イメージかもしれない。いかなる物理的な伝播メディア上に記述されるかによって、当該情報が社会的に伝達されてく場合の解釈や影響力は大きく変化するであろう。》