●『ジ、エクストリーム、スキヤキ』(前田司郎)をDVDで。
出だしは、つまらないと思った。手垢のついた、日常系オフビートみたいな感じで、こういうのはもういいよ、と思い、なまじ、日常からのちょっとしたズレによって笑える小ネタを拾ってくる感じがとても上手(手慣れた感じ)なだけにうんざりして(スキヤキとかスケボーとか弓とか仏具屋とかの「使い方」にしても、こういうのってもう完全にルーティーン化されている、とか思って、器用なだけの「志の低い日常系」のように感じられた)、どのタイミングで再生を止めようかと思いながら、惰性で観ていた(窪塚洋介って誰かに似てるよなあ、あっ、そうか、「IWGPの頃の窪塚洋介」に似てるのか、同一人物を「似てる」と思うというのは、この窪塚とあの窪塚を別のカテゴリーとして認識しているということなのか、とか思ったりしながら観ていた)。でも、しばらく流すように観ているうちに、とつぜん、「いや、でも別に、特に面白くなくてもいいんじゃないかな」という思いがやってきたのだった。
このニュアンスが上手く伝わるかどうかわからないのだけど、「無理して面白くあろうとしなくてもいいんだよな」と思った、というか、「面白いものだけを見たがっている自分というのは、がっついているというか、ちょっとあさましいのではないか」と気づいたと言えばいいのか。つまり、そういう肯定(あるいは、リラックス)を「この映画」が与えてくれたということだと思う。そして、この自分の変化に、自分ですごく驚いた。
確かに、出だしの部分は「わざとらしさ(というか、過度に「こなれた」感じ、特に主役の二人のコンビが「こなれ過ぎ」だと思う)」が勝っていたように思うのだが、しばらく進行してゆくと、だんだん「いい感じ」にほぐれて「こなれ感」が後退してきて、受ける印象もずいぶんと違ってくる。とはいえ、最後まで観ても、特別面白いということはない。しかしそれでも、じわじわと、これはなんか「すごくいいんじゃないか」と思うようになってくるのだった。だから、「特別面白いということはない」というのは否定ではなく、「面白い」ということとは違う別の面白さが何かあるはずなのだ(そうでなければ、作品への不可解な態度変更――別に面白くなくてもいいんじゃないか――が、いきなりやってくるはずがない)。それは、最初はよくある「日常系オフビートを狙った」ようにしか感じられなかったものが、しばらくするうちに、何か「とてもリアルなもの」に突き当たるようになっていったということなのだと思う。
最後まで観て感じたのは、「ああ、若いっていいよなあ」という感じと、このような「若さ」は、自分のところにはもう二度と訪れないのだなあという強い(苦い)郷愁のような感情だった。いや、若いと言っても、この映画の登場人物たちは皆、おそらく三十代の半ばを過ぎている。とはいえ、今のぼくにとっては三十代半ばくらいの人は充分に「若い」と感じられるし、自分の経験的感触を考えても、二十代よりの頃よりも三十代の方が「若かった」という感じがする。
ここで言う「若さ」とは、可能性が大きく開かれている、あるいは逆に、未だ何ものでもないことの不安に浸されている、という意味での若さではなく、可能性は閉じられはじめ、自分がどの程度でしかないかははっきりしはじめたものの、先行きはまだまだ不透明で、それでも(それだからこそ)、まだ、だらだらと無駄なことをする(逡巡する)余裕が残されている気はしている(そういう「感じ」は残っている)、というような意味での「半端さ」のことなのだと思う。
先は見えているのにまだ先は長い、行き詰まってはいるけど無駄なことをする時間はまだある、みたいな、どっちつかずの、まさに、まだ「死に切れない」ことによって眼前に茫洋と広がるグレーな拡がりの、寄る辺ない大きさ(それが、緩いぐたぐたの時間を可能にする余裕でもあり、深淵を覗き込むような恐怖でもあり、両者が背中合わせになっている感じ)、というようなものを感じさせる。そういう感覚を、三十代的っぽいリアリティとして着地させている作品は、他ではあまり見たことがない、ということかもしれない。
ということで、観終る頃には、とてもよいもの、かけがえのない何かに触れられたという感じになって、とても貴重な、とても好きな作品だと思うようになっていた。途中で再生をやめないで本当によかった。
●ホラグチさんをやっている俳優を、ずっとARATAだと思って観ていたら、最後のクレジットに「井浦新」と書いてあって、あれっ、違う人だったのか、と思ったけど、よく考えてみると、井浦新の「新」というのは「あらた」なので、だからきっとARATAのことなのだった。