2023/06/17

⚫︎Dr.Holiday Laboratory『脱獄計画』(仮)のミニシンポジウムの予習(復習)のために記録映像を観ていた(戯曲を買うと、記録映像へのアクセス権が得られる)。特に複雑になる最後の8場、9場は、戯曲と付き合わせて観た。映像と戯曲を付き合わせることで初めて気がつくこともいくつかあった。

ぼくは上演を観る前に戯曲を読んでいて、戯曲が読み物としてとても面白くて完成度が高いもので、しかしだからこそ、この戯曲の構造を上演で完璧に再現・表象するのはとてもむづかしいのではないかと思い、もしかすると上演が「戯曲の中途半端な再現」みたいになってしまうこともあり得るのではないかという危惧を持って観に行ったのだが、開演後すぐに、「戯曲を正確に再現する」ということとは違った意図、ある意味で戯曲のあり方を裏切るかのようなやり方で演出されているのだということがわかり、危惧がなくなって楽しんで観られた。

この作品の経験には、(1)原案となった小説を読むこと、(2)読み物としての戯曲を読むこと、(3)上演を観ることという三つの層があって、それぞれがそれぞれとして自律的な体験として十分に面白いものでありながら、三つの層が重なることでさらに興味深いものになる。そしてそこに、(4)戯曲と付き合わせながら記録映像を観る、という、もう一つの層が加わるとも言えるのではないかと思った。

戯曲と付き合わせて上演映像を観るという時、それは、上演の答え合わせとして戯曲を参照する(上演では掴みきれなかった構造を戯曲を読んで確かめる)というのではなく、逆に、戯曲とその完成形としての上演を比べる(戯曲はあくまで「上演」に至るための準備段階であり未完成である)というのでもなくて、それぞれが相手を参照し合いながらもそれ自体として自律してある「戯曲」と「上演(記録)」という二本の流れを並走させながら受け取るということになる。

上演を観る前に戯曲を読んでいる場合、上演を観ながらもある程度は上演と戯曲との相互参照を感じてはいるが、とはいえ戯曲を完全に暗記しているわけではないし、上演中に印刷された戯曲を手元に置いていちいち見比べるわけでもなく、あくまで、その時、その場所で起こっていることを観ることが主になる。そして「上演」そのものは、公演が終わると消えてしまう。

作品における三つの層の三つ目が消えてなくなってしまったあと、その消えた一つの層を補うかのように四つ目の層がやってくる。そしておそらく、この四つ目の層があることによって、例えばシンポジウムのようなことが可能になる、のではないか。

(四つめの層は、消滅した三つめの層が「不在」として強く作用していることによって可能になる、と言えるかもしれない。)

(記録映像はバラバラに、つまり、ある部分だけ抜き出して観たり、一時停止したり、巻き戻して繰り返し観たりできる。それは、ライブとして、まるごとの体験としての「上演」を殺しているとも言えるが、別の生を模索しているとも言える。)