●事故は、いつ、どこに(誰のもとに)現れるかわからない。それは確率的なものであって、たまたま誰かのもとに出現する。それが確率的なものであるとすれば、たまたま事故を起こしてしまった誰かに責任を負わせることは本来ならできないはずだ。たとえその誰かに不注意があったとしても、その人以上に不注意であった他の大多数のもとには事故が訪れないとしたら、責任をその誰かに押しつけるのはなんと不公平なことだろうか。とはいえ、理屈ではそうだとしても、その誰かが責任を感じてしまうことは避けられないだろう。この、負債の感情を拭うのは困難だ。
歴史は起こったことしか扱えない。起こったかもしれないが起こらなかった無数のことは、起こったことに責任を押し付けてだんまりを決め込む。それは、たまたま事故を起こさなかった(事故が自らのところにやってこなかった)というだけの理由で、自らには非がなかったかのように振る舞う大多数の者のようだ。そして、起こったことは、それが必然であったかのような位置に無理やり押し上げられる。起こったことだけが、スケープゴートのように後付的に必然性を付与される。それはなんと不公平なことだろうか。
(「起こらなかったこと」を「起こったこと」と同等なものとして、実感をもって受け止めることができないというのは、人間の思考=感情の大きな限界だといえる。とはいえ、この限界は、限定された視点としての「個」を成立させる条件であるかもしれない。「起こらなかったこと」の塊から排除された「(「ここ」で)起こったこと」の集合が、「わたし」という個を成立させる、のか。その限定に向けて、クオリアが配分される、とか。)