●自分の作品について(だけ)は、その作品がどのようにして出来たのか、その過程の全てについて知っている。どのような展開があり、どのような可能性と、どのような迷いと、どのような断念と、どのような危険のなかで、結果としてそのようなものに至ったのか。この過程の全てに立ち会っているのはそれをつくった人だけだ。そのすべてを味わうことが可能なのは実作者だけなのだ。逆に言えば、実作者に優位があるとすれば、ただこの点においてだけであって、作者だからと言って、その作品を十分に知っているわけでも、支配しているわけでも、所有しているわけでもない。もし作品が、結果だけがすべてだとすれは、その過程はたんに結果のために必要な作業でしかない。しかし、料理することは食べること以上に「食物を味わう」ことであり、過程は結果以上に面白いものだ。
だから、すべての人が実作者になればいいのに(食べる人のすべてがつくる人であればいいのに)、と思う。すくなくとも、絵なんて誰にでも描けるのだから。歌は誰にでも歌えるし、踊りは誰にでも踊れるし、詩は誰にでも書ける。それが「良い」ものであるのかはまた別の話だが。良い作品をつくることはとても困難なことで、良い作品ができるということは奇跡のようなことだとさえ言える。しかし、その奇跡は実際にいたるところで起こり得るし、実際に起こっている。だから誰でもがやってみる価値があるし、やってみてうまくいかないことは別に恥でもなければ負けでもない。もともと奇跡なのだから、それは簡単には起きない。しかしそれは、思いのほかそこここで起こってもいる。やってみてうまくいかなかったら、もう一度つづけてやってみるのもいいし、しばらく休んで、新たなアプローチを考えてやり直すのもよい。一度うまくいっても、次に同じやり方でうまくゆくというものでもない。
絵を描くのに大した元手はいらない。それは、紙と鉛筆さえあればいい、という意味だけではない。前もって大層な技術や知識を仕込んでおく必要もない。作品をつくるということは、自分が持っているものを使って、それ以上のものを作り上げるということなのだから、誰でもが既に十分なものを持っているし、逆に、誰でもが常に必要な何かを欠いている。技術と教養と条件に恵まれた人は、確かにいくらかのアドバンテージを持つが、そうだからと言って必ずしも良い結果が訪れるとは限らない。ごく貧しい手持ちしかない者のもとにも、実際、奇跡はけっこう起こっているということを、多少でも教養のある人なら知っているだろう。奇跡なのだから、それが何処に(誰のもとに)起こるのかを前もって決めることはできない。
制作においては、どんな人であっても前もって成功が約束されてはいない。やってみなければわからない。世界の巨匠も超絶技巧のテクニシャンも超人的に頭のいい人も絶大な人気をもつ者も、すべての人にとって、その条件は変わらない。あらゆる作品は、誰でもが歌を歌ってみることが出来る(おそらく、声や聴覚を失った者でさえも)というところから始まっているし、そこに繋がっていて、そこに根を持つ。そうでない作品は死んでいる。だから、作品の制作はすべての人に対して開かれている。百万人の観客がいれば開かれていて、三人の親しい観客しかいないから閉じているなどということはありえない。作品の制作はすべての人に開かれているのだから、どのような作品も既に前もって開かれている。自分が食べるためにつくられる料理でさえ、あらかじめ世界に対して開かれている。
繰り返すが、良い作品をつくることは難しい。それは奇跡のように困難だ。そんなに簡単にうまくはいかない。良い作品とそうでない作品の違いは歴然とあり、この点については譲れない。これはとても厳しいことだ。しかしそれを確認したうえで、もっと多くの人が気楽に作品を「つくってみる」ことをすればいいのにと思う。食べることだけが料理ではないとすれば、結果だけが作品ではないとすれば、生きることそのものが制作となり、だから、何も人生を投げ出して(闘争とか言って)制作にすべてを捧げることもなくなる(もちろん、捧げる人が居たっていい)。すべての人がアーティストであれば、アーティストという(社会的)アイデンティティなどどうでもよくなる。つまり、多くの人から評価されたり、売れたりしなければダメなのか、などという下らないことで悩んだり言い合ったりしなくて済むようになる。
●当たり前のことだけど、評価されたり売れたりすることに意味がない、と言っているわけではないです。言うまでもないけど、それはまた「別の次元」のこととしてとても重要なことです。評価されなかったり売れなかったりすることは、別の次元の問題として、常に大きな悩みでありつづけます。