●お知らせ。6月17日に、池袋のジュンク堂で西川アサキさんの新しい本の刊行記念のイベントがあって、そこで西川さんと対談します。
西川アサキ『魂のレイヤー 社会システムから心身問題へ』刊行記念トークイベント「わたしたちはわたしたちをどこへ置くのか?」
(追記・「講師紹介」のところで、1968年生まれになっていますが、67年生まれの間違いです。)
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=5409
●なぜ、「わたし」は「他ならぬこのわたし」であるのか、というのが問題なのではない。そうではなく、なぜ、「わたし」という一般的な(ごくありふれた、交換可能であるはずの)形式が、その都度、「他ならぬこのわたし」という形でしか成り立たないのか、なぜ、どんなわたしも「他ならぬこのわたし」でなければならないのか、ということの方が重要であると思う。すべての人(の意識)が自分を「わたし」として立ち上げているにもかかわらず、そのすべての「わたし」が「他ならぬこのわたし」という固有の視点(という形式)としてあり、そのような視点からしか世界を観測・認識・経験できない、というところに謎があり、問題があるのでないだろうか。
おそらく、「わたし」とは、私の脳や身体という特定の場所にあるのではなく、それらを含むもっと大きな環境の相互作用のなかから創発される。しかし、にもかかわらず、わたしの痛みを感じるのは「このわたし」のみであり、わたしの死とは「このわたしの死」としてあり、たまたま隣にいる「別のわたし」からは切り離されている。
「わたし」とは、無数の雑多な要素の相互作用の結果だとすると、「わたしという形式」は、それらを相互作用させるための一つの場所(あるいは、相互作用の結果生じた一つの場所)、それ自体はゼロであるような一つの結節点と考えられる。しかしこの「点」は、この宇宙のなかの「ここ」と指させる物理的な空間のなかにはない。点には境界線がなくリンクだけがあるから、そのネットワーク全体に曖昧に広がっているとも言えるが、点はそのネットワークそのものを「可能にするもの(メディウム)」であるから、そのなかの「どこか」にあるというわけではないといえる。
わたし(という形式)は、主体でも意識でも記憶でも身体でもなく、(メディウムとしての)機能する点である、と。だけど、もし「わたし」が点としてあるならば、わたしという一般的な形式は、常に「他ならぬこのわたし(この点)」としてしかありえないということになってしまう。
しかし、「他ならぬこのわたし」とは別の形式の「わたし」ということは考えられないのだろうか。例えば、「わたし」は、三分の二くらいは点Aであり得るけど、六分の一くらいは点Bでもあり得て、十二分の一くらいずつは点CとDでもあり得る、という感じで、確率的に分散する「このわたし」とかを、リアルな実感をもって考えることは出来ないのだろうか。
あるいは、点(中枢)を考えないでも成立する「わたし」として、「統計力学的なわたし」を考えられないだろうか。それぞれ個別に、ランダムに運動する無数の粒子状の何かがあったとして、それらの間には何の協調関係もないのだけど、それらの動きを統計的にざっくりと大きく見れば、そこにあたかも一つの統一した「わたし」的なものがあるかのような描像が描けてしまう、というような。とはいえこれには、「わたし」の外側にいて、世界のなかに「わたし」的なものを見出す(観測し、描像を描く)、もう一人の別の「わたし」的な機能が必要となるのだけど。
(例えば、赤ちゃんは未だ内的な「わたし」をもたず、外側からみられた統計力学的なわたしであるのかもしれないが、それを観測する別のわたし――大人――が、それを内的な「わたし」をもつものであるかのように観測し、そのように接し、扱うことによって、内的な「わたし(点)」が教育され、付与される、ということとか。)