ライプニッツについてネットで調べていて、『ヨーロッパ精神史入門』(坂部恵)という本に行き当たって興味をもった。坂部恵という名前は勿論知ってはいるけど、「批評空間」のカントに関するシンポジウムくらいでしか読んだ記憶はなく、なんとなくカントの専門家というイメージしかなかったけど、この本はそういうイメージとはずいぶん違うみたいだ(カントに関する本も一冊くらいは読んだ気もするけどよく憶えていない)。といっても、ぼくはこの本を読んではいなくて(「日本の古本屋」で検索してもひっかからず、アマゾンのマーケットプレイスでは六千円近くする…)、以下に書くことは下の書評のみを参照している。
http://d.hatena.ne.jp/katos/20111007/1317981119
実在論者と唯名論者の間でなされる普遍論争というものがある。実在論(スコトゥス派)とは、普遍そのものがそれ自体で存在すると主張するもので、唯名論(オッカム派)は、実在するのは個物であって、普遍は「名」としてのみあるとする、という程度の理解しかぼくにはないのだが。で、書評によると、坂部恵は、この論争は、個と普遍のプライオリティの問題であるというより、「個的なもの」をどう捉えるかの違いであるとしているそうだ。個を「確定したもの」と捉えるのが唯名論、個を確定されない「汲みつくし得ぬもの」としたのが実在論、という風に。
《個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが肝心のところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するものと見なすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与件として、しかも単純で確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構成要素と見なすか。/「実在論」と「唯名論」の対立の因ってくるところは、このような考え方のちがいにあるとおもわれます》。
これを真に受けてざっくり言えば、個をアトムとして捉えるのが唯名論で、個をモナドとして捉えるのが実在論だと言っていいんじゃないだろうか。そして、中世以降のヨーロッパでは唯名論が主流となり、近代の、功利主義、個の尊重、「民主主義」(括弧つきの民主主義)などは唯名論を基本原理としている、とされる。それに対し著者は、実在論に大きく肩入れする、というのがこの本らしい。書評には、《そうした思考の線上で、アヴィケンナの「共通本性」、ドゥンス・スコトゥスの個体概念、ライプニッツによるその展開、ホイットマンやジェイムズの種概念、アルベルトゥス・マグヌスおよびニコラウス・クザーヌスの多元宇宙論・個体論、「能動知性」概念の退潮とカントによるそのアクロバティックな置き換え、といったさまざまな概念・議論が参照されてしばしば気が遠くなりかけるが、上記のように主張の太い線はきわめて明確なので、よくわからない箇所は残っても頭が混乱することはない》と書かれている。以下の引用は、この本に引用されているというパースの「形而上学ノート」からのもの。これがすごくシブい。
《考え深い読者よ、政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先入観――思考においても、存在においても、発達過程においても、「確定されないもの」(the indefinite)は、完全な確定性という最初の状態からの退化に由来する、という先入観を取り払いなさい。真実は、むしろ、スコラ的実在論者――「定まらないもの」(the unsettled)が最初の状態なのであり、「定まったもの」の両極としての、「確定性」と「決定性」は、概していえば、発達過程から見ても、認識論的にも、形而上学的にも、近似的なものを出ない、と考えるスコラ的実在論者の側にあるのである。》
●で、まったくの思いつきでしかないのだが、これと、昨日引用したブログの内容や西川アサキの本とを響かせてみると、唯名論的な個の発生が「実在化」で、実在論的な個の発生が「現働化」(言葉が交差していてややこしいけど)となるのではないか。実在化は、この世界になかに「ある物質」として生まれることで、そこには全体からの切断というイメージがあるが、現働化は、「ある全体」からバックグラウンドが後退して明確な図柄が出現するというイメージなので、連続的な感じ。そして、唯名論的な発生(精神= code・実体的紐帯・外延に関わる)と、実在論的な発生(潜在性・魂・内包に関わる)が重なるところに、経験を可能にする中枢としての「身体」が可能になる、ということになるのではないか。
●昨日はけっこう何気なく引用したのだが、『魂と体、脳』の以下の部分の重要性を、引用した部分を読み返して改めて感じた。
「現働化」においては《全体は先に与えられ》るが、「実在化」においては、《部分から部分に、近いものから遠いもの》へと、《手探り》にすすんでゆく。後者が成り立たなければ、新たなものの創造が不可能になり、しかし前者が成り立たなければ、創造されたものはその場限りで消え、「全体」は常に不変となってしまう。だから、後者に対する前者の優位か、あるいはその逆か、が問題なのではなく、その両者が触れ合うところに、その触れ合うあり様の具体性(具体例)として、個々の身体(イメージ・作品・技術・実践・等々)が現れる、ということが重要なのだと思う。もう一度しつこく引用する。
《つまり、「現働化」は、モナド=精神の中での「明るい部分(「特権的な帯域」)と暗い部分の配置」を決めることだ。その意味で、全体は先に与えられ、その上にどのゾーンが明晰でどの領域が混濁したバックグラウンドなのかという分布、つまりクオリアの強度分布(本書で「フレーム」と呼んでいるもの)を配分してゆく。一方、「実在化」は、「物質」の中での出来事の実現であるという。「実現」が何を意味するのか解釈は難しいが、本書ではそれをとりあえず「共可能性の探索」として考える。ある出来事と別の出来事は、矛盾なく共可能なのか? そうではないのか? それは手探りの過程であり「部分から部分に、近いものから遠いものにいたる」からだ。》