●「あなた」について考えていて思い出したのだが、前に『ダンゴムシに心はあるのか』(森山徹)という本を読んだ。ダンゴムシに心はあるのかという問いは、つまり、ダンゴムシから「あなた」を見出せるのかという問いでもあろう。この本では、ダンゴムシに心があるということを実験によって示し、さらに「性格」まであると書かれていた。
この本の「心」の定義が面白い。それは「内なるわたくし」であり「抑制された行動」であるという意味で常識的なのだが。例えば、私があなたに向かって包みを差し出し、「心をこめて、あなたに送ります」と言う場面を考える。この「私」は普段着なれないスーツを無理して着ていて、しかしあわてて来たためにぜいぜい息を荒め、汗の匂いさえたてている。この様子をあなたは五感で捉えている。しかしここで同時に、私はおなかが空いていて、私の背中にはできかけの発疹があるとする。ここで私は「おなかが空いた」とは言わないし、無意識に背中を掻いたりもしていないから、あなたにはそれが分からない。これらの行動(表現)は、「あなたに思いを伝える」という優先性の高い行動によって覆われ、潜在的な次元に留まり、抑制されている。このような「抑制」が存在することを「心がある」とする。
ここで「心」は必ずしも意識とは一致しない。背中の発疹は、「かゆい」と意識されるより弱いかゆみしか発していないかもしれない。しかし、あなたが目の前にいないリラックスした状態では、無意識のうちに背中を掻いているかもしれない。だからここで「意識」は無くても行動の抑制(心)はある。この二つの場面の「差」のなかから「心」が浮かび上がるのだ。ここで面白いのは、そうだとすれば、心はわたしの「内なるもの」であると同時に、わたしとあなたの「間」にあるものでもあることになる。一人でリラックスして無意識に背中を掻いている時、その分だけ「わたしの心」は減ることになる。
だから、実験によって「心」を露呈させるというのは、「あなたに思いを伝える」というような優先性の高い、しかも事前に予測される状況を不意にキャンセルすることとによる。必死になってあなたに会いに来たのにあなたが不在であった場合、わたしはがっかりしながらも、無意識にぼりぼりと背中を掻くかもしれない。実験の詳細はわすれたけど、ダンゴムシにとって、あなたがいる場合と不在の場合に相当する二つの状況が用意され、その時のダンゴムシの行動の違いによって「心」があるとされていた。ダンゴムシのなかに「あなた」が見出される。
●面白いことに、ここでは心が「抑制」から定義されている。河本英夫もまた、「意識(こちらは心ではなく意識だけど)」は、行動の促進ではなく、行動の抑制であると書いていた。「手を上げよう」と意識するから手が上がるのではなく、意識より早く必要に応じて体が勝手に手を上げる。しかし、「手をあげないということもあり得る」という可能性の確保が「意識」なのだとされる。
●あと、ちょっとだけダンゴムシつながりで、下のブログが面白い。
現代思想におけるライプニッツの子どもたち---記号/情報/システム」
http://sekokazuki.hatenablog.com/
《ここで仮に心身に対して次のような定義を下してみる。「精神=可能態」「身体=(可能態から現実態への)現働化の中心」。身体が精神=可能態から何ものかを汲み取ってきて己のもとへ戻るとき、二つのバリエーションがある。一方は、自発的な「行動」であり、他方は受容的な「(胚)発生」である。どちらにせよ、身体はこれら現働化によって外界へと出現しまた外界へと働きかけるが、それによって身体は、己自身を変様させてもいる。実際、己自身を変様させないような行動あるいは発生は存在しない。》
《精神のほうはというと、行動においてそれは、多様な選択肢の中から「この行動」や「あの行動」を身体が引き受けるような、観念・判断・意志の諸機能を有している。発生においてそれは、所与の遺伝子配列を有している。どちらにも共通しているのは、「構造structure」である。つまり、その身体をして行動せしめるような一連の常同症すなわち「常識」、その身体をして発生せしめるような化学装置としての「遺伝子」。この意味で、「無意識は構造化されている」と述べるラカンは正しい。私たちの意識が注意を向ける以前にそこでは、私たちがそのように考え、そのように行動し、そのように発生するよう強制している所与の規則codeが存在している。つまり、精神=「可能性」 とは、現在における感覚印象を習慣化させ過去における諸観念を統合させているような、身体の行動及び発生を規則付けている働きの総体として理解することができる。》
《そのような「可能性」とは、経験的なものである。経験なくして可能性はありえない。とはいえ経験とは、外部の物体との出会いを経験するある何らかの「主体」または「個体」を俟ってはじめて可能となるものであるのだから、そのような主体的経験の圏外で、ということはまた可能性の圏外で、未規定なものとしての「潜在性」が措定される。というのも、可能性が、身体を所与の仕方で形成するよう規定する構造であるとしたら、そのような可能性が身体とともに経巡る経験論的冒険以前の段階で、可能性すなわち身体がそこで構成されるような「未規定な《場》」が想定されなければ、その下部構造の上に建てられた身体はまるで砂上の楼閣のようにしか考えられないからである。》
《身体に多様で可能的な行動をとらせるかぎりで人間知性は精神であり、それとの類比で、身体に多様で可能的な発生をとらせるかぎりで遺伝子は精神である。つまり、精神とは身体に付け加わったり分離されたりする観念的産物などではなく、それはむしろ、厳密に身体とともに在る。要するに「精神」とは、多様な「身体」がそこから発生し行動するところの、プールのようなものである。潜在性の充満したこのプールでは、絶えず身体が(あるいは同じことだが、経験や可能性が)生成している。》
《「しかし、なぜ現実では潜在的なものがすべて実現されていないのか?」という疑問に対しては、「現実が質料を持っているからだ」と答えられる。つまり、質料間で生じる摩擦や重力が、熱や電気といったエネルギーの生成を一部だけ可能にしたりまた妨げたりしているように、潜在性は現実性によってつねに阻害bloqueされている。たとえ一瞬の閃光が雷の出現を可能にしたとしても、質料的な現実がその電気エネルギーをただちに阻害するために、雷は無限に増進しもしないし持続もしない。》
●例えば、引用部分で言われている、「身体=経験」と「精神」の関係、そして「精神(code)=可能性」と「潜在性」との関係は、ぼくが昨日や一昨日の日記に書いたある種の階層構造(中間にある媒介から上層と下層へと分離する構造)と関係があるように感じられる。これは、「身体」と「精神」が「経験」を媒介にして関係するということであると同時に、「身体」と「潜在性」が「精神=可能性」を媒介として関係するということでもある、と言っているのではないだろうか。
ここには、階層構造を逆転し得る双方向性があるのではないか。潜在性の全き実現は、質料があることによって阻害されるが、可能性(精神・code)を媒介とすることで、質料のなかにその制限された表現形(身体)を見出すとも言い得る。だがそれだけでは、身体は質料によって制限された(可能性へと縮減された)潜在性(不十分で劣った潜在性、下位の潜在性)に過ぎなくなる。しかし身体は、身体によって可能になる経験(経験の冒険)を通じて己自身を変様させ、それが可能性としての精神(code)に影響を与え、その書き換えを通して、「潜在性の実現のされ方」にまで影響を波及させる可能性があるのではないか。この逆向きの流れによって階層は逆転する。ある身体の経験によって可能性(精神)が書き換えられ、新たな精神を介することで、潜在性からまったく未知の身体が引き出されることが可能になる(よって、さらに未知の経験が可能になり……)、というような。
●ここで言われている精神=可能性というのは、西川アサキの本で共可能性と言われていたものとほぼ同じとみてよいのだろうか。いや、共可能性は現働化や実在化の「条件」のようなもので(つまり質料に近い感じで)、精神=可能性= codeは、実体的紐帯と重なるのか。
以下、引用は『魂と体、脳』から。
《何が共可能であって何が不共可能なのか? 試されているのは、その区別だ。実はそれを決めるためには、「実験」としての「身体=出来事」(=「実体的紐帯」による複合実体内でのモナド間の「支配」関係)が必要になる。なぜそれは「実験」なのか? 実体的紐帯があるモナドを、身体に入れるかそれとも入れないか決めるプロセスを考えよう。中枢のモデルでは、それは実体的紐帯の発生的要素と構造的要素と呼ばれていた。ドゥルーズはそれを、「現働化」と「実在化」と呼んでいる。》
《つまり、「現働化」は、モナド=精神の中での「明るい部分(「特権的な帯域」)と暗い部分の配置」を決めることだ。その意味で、全体は先に与えられ、その上にどのゾーンが明晰でどの領域が混濁したバックグラウンドなのかという分布、つまりクオリアの強度分布(本書で「フレーム」と呼んでいるもの)を配分してゆく。一方、「実在化」は、「物質」の中での出来事の実現であるという。「実現」が何を意味するのか解釈は難しいが、本書ではそれをとりあえず「共可能性の探索」として考える。ある出来事と別の出来事は、矛盾なく共可能なのか? そうではないのか? それは手探りの過程であり「部分から部分に、近いものから遠いものにいたる」からだ。》
《「身体」が必要になるとは、実はこういう意味だと思う。身体は、何が共可能で、何が不共可能なのかを決めるプロセスによって決定される。そのプロセス内部に不確実性をはらんだ「実体的紐帯」によって、身体と魂の区別、支配されるモナドと支配的なモナドの区別を決める。だから、新たに「身体」が必要になるということは、「魂」しかないモナドジーの観点からみた思考であって、事の本質は、「魂と身体の区別」の不確実性にある。》
●これを、上記のブログの文脈で言いかえると次のようになるのではないか。そもそも潜在性と身体とは明確には識別不能であるからこそ、その一方を上位(潜在性)へ、他方を下位(身体)へと分別する媒介として、内部に不確実性をはらんだ「精神(実体的紐帯)」が要請されるのだ、と。