●今日はずっと、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』の新しく出た訳のやつを読んでいた。
●だがもう一方で、一昨日の『輪るピングドラム』の東京スカイメトロの衝撃がじわじわきている。
ピングドラム」の背景世界は最初、荻窪とか池袋とかのリアルな再現から(つまり現実の現在と地続きである、あるいは平行であることを強調する地点から)すべりだしていて、それが徐々に、例えば地下61階よりさらに下にある図書館とか、夏芽家の大きな屋敷とか、ポンピドゥーセンターみたいな病院とかを出して、虚構的な次元を(つまり「現実」のこの世界とは違う層を)濃く打ち出してくるようなってきて、そしたらいきなり95年3月20日の現実上の大事件にピンポイントで照準を合わせて人を驚かせ(いきなり現実との間にどでかい通路を通して)、いったいあの事件をフィクションとしてどう扱うのかと思っていると、今度は(当然、丸の内線だろうと思い込んでいた)地下鉄空間の構造をひっくり返すことで、虚構世界の世界像のあり様をまさに「あの事件」を起点としてくるっと反転させてみせた。つまり、地下鉄という空間(そして95年3月20日)が爪先部分だとして、この世界と「ピングドラム」の世界とはひっくり返した靴下の裏表のような関係にあるということになった。
これによって、虚構の世界としての「ピングドラム」の世界が反転しただけでなく、それを観ている「こちら側」にいる我々の世界さえもひっくり返ってしまったようにすら感じられる。向こう側の世界(「ピングドラム」の世界)こそが正しい現実で、こちら側こそが、そこから取りこぼされた裏側(幻)のような世界なのではないか、とさえ…。フィクションが現実の事件を題材とするのではなく、フィクションの力によって、(向こう側の世界から照射されたものとして)こちら側のこの世界の感触が書き換えられてしまう(というか、「位置づけ」が動かされてしまう)かのような。この仕掛けはすごいと思う。これはもう、アニメとしてすごいというだけでなく、あらゆる種類のフィクションをひっくるめたなかでも突出している。
ふりかえって考えれば、主要な登場人物以外は基本的に記号的に処理される「ピングドラム」で、地下鉄の乗客だけがちゃんと描かれるなど、当初からあきらかに地下鉄は特別な空間であった(というかそもそも、群衆の記号的処理からして、たんに再現ではない、独自の現実と虚構の関係性を表現するものだった)。しかし回を重ねてゆくうちに観る側としてはその特別さに慣れてしまって、普通に丸の内線が再現されているのだろうと甘く見積もるようになってしまっていた。そのこちらの隙(甘さ)をつくように、なにげなく虚構空間と現実空間の関係の臍の緒にあたるようなこの部分をくるっとひっくり返してみせた。というか、地下鉄空間がひっくり返されたことで、事後的に、地下鉄こそが現実世界と虚構世界との臍の緒であったことが分かって、そこからじわじわと、この世界の感触にまでこの反転の影響が浸食してくる。あー、やられたと言うしかない。