2024/03/26

⚫︎ハーマンの存在論では、「リテラルなもの」はオブジェクトではなく「状況」あるいは「性質」である。リテラルなハンマーは、世界の道具的連関の一部であってオブジェクトではなく、ハンマーが壊れたときのみ、オブジェクトとしてのハンマーが現れる。また、オブジェクトは「比喩(隠喩)」によってのみ、その存在の組み尽くせなさが表現される。「海」の特徴を無限に列挙しても、それは「状況としての海」であり、あるいは「海」というオブジェクトを「質(感覚的性質)の束」に還元したものにすぎない。ただ、「濃いぶどう酒のような海」というような比喩によって、自律したオブジェクトとしての「海」の一端(自律性)が掴まれる。

(比喩は、通常の「感覚的性質の束」から逸脱した別の質(性質)への接続であり、そのような意味で、通常の道具的連関から逸脱した「壊れたハンマー」に似ている。)

「海」というオブジェクトそれ自身(実在的対象)は、外部へのあらゆるアクセスを逃れて引きこもっている。ただし、その周囲には無数の感覚的性質が漂っていて、その感覚的性質と、別の実在的対象(たとえば「わたし」)との間に真摯な出会いがあると「わたし-海(実在的対象-感覚的性質)」という新しいオブジェクトが生まれる。実在的な「わたし」と感覚的な「海」は、その両者を包摂する「志向性」の中で出会う。故に「心」は「わたし」の内部にあるのではない。

(例えば、綿が燃えるというような物理現象においても、「実在的な火」と「感覚的な綿」が出会うことで、実在的な「燃える綿」が生じる、という風に説明される。火の志向性の中で、実在的な火と感覚的な綿が出会う、あるいは、綿の志向性の中で、実在的な綿と感覚的な火が出会う、のだ。)

この時、実在的対象である「わたし」は、実在的対象である「わたし(実在的対象)-海(感覚的性質)」のなかの「実在部分」として自分を見出す。ここで、「わたし」も「わたし-海」も、どちらも自律した実在的なオブジェクトである。このことをハーマンは、水(H2O)も、その一部である水素(H2)も、どちらも自律したオブジェクトであることと同じだと説明する。

「濃いぶどう酒のような海」という比喩があるとする。しかし「濃いぶどう酒(のような色)」という性質は、実在的な海-感覚的な海という繋がりからは通常得られない。つまり比喩によって示される「実在的な海-感覚的なぶどう酒」という(実在的対象と感覚的性質との)接続は成り立たない(オブジェクトを生まない)。そして、対象を持たない「性質」はあり得ない。つまり、ただ「濃いぶどう酒(のような色)」という性質のみが対象なしに虚空を漂うことはない。ならばこの比喩(によってもたらされる性質)は、どのような対象において現れるのか。

それは、この比喩を発話した(書いた)、あるいは聞いた(読んだ)、「わたし」という実在的対象において現れる。つまり「真摯に受け取られた比喩」においては「わたし」が「(濃いぶどう酒のような)海」になる。比喩は言語のレベルだけでは完結せず、「言語-わたし」の連結(真摯な出会い)によって初めて生まれる。比喩がもたらす「新しい海の性質を持つオブジェクト」は「わたし」によって演じられることでこの世界に生まれる。

比喩は言語のレベルだけでは完結せず、「言語+わたし」によって完結する(自律したオブジェクトとなる)。同様に、芸術作品は、それを受け取る観客(実在的対象としての自分自身によってそれを演じる観客)なしには完結しない。しかしそれは、「作品+観客」として完結する自律したオブジェクトであり、他(環境・状況)から切り離されている(リテラルではない)。そして、水素が、水の構成要素でありつつそれ自身として自律したオブジェクトであるように、観客もまた、「作品+観客」からなるオブジェクトから自律している。

⚫︎以下、グレアム・ハーマン『Art and Objects』の、フリードについて論じている三章から引用。翻訳はClaude 3による。ほぼ、そのまま。

成功した隠喩は、珍しいタイプのRO-SQ(引用者追記「実在的対象-感覚的性質」)である新しい対象を創り出します。現象学の洞察から、あらゆる対象にはその対象と対象自身の質の間に常に「緊張」があることがわかります。「緊張」とは、対象がある程度の漠然とした限界内でその現在の質を別のものと交換できるため、対象がその質を同時に持っていて持っていないことを意味します。通常の感覚的対象の場合、木は私たちがそれに立ち向かう仕方や角度、距離によって無数の異なる性質を持つことができ、感覚的な木とその感覚的な性質の両方が経験の中で直接対峙されます。隠喩、そしてそれに伴うあらゆる美的経験は、創り出される対象が感覚的ではなく現実的であるという意味で奇妙です。「ぶどう酒のように濃い色の」と形容されたホメロスの海は、ぶどう酒からあまりにもかけ離れているため、日常的な経験と文字通りの言語における感覚的な海ではなくなります。海は今や退かれ謎めいたものとなり、ぶどう酒のような感覚的な質に囲まれています。これがRO-SQの対角線のパラドクスを意味しており、それを文字通りの記述に還元できないことが、それを美的なものたらしめています。つまり、直接的な命題の散文の対象ではなく、暗示の対象となるということです。

しかし、ここに問題があります。ホメロスの隠喩による海が文字通りのアクセスからすべて退いているがゆえに、その濃いぶどう酒のような性質が残っていても、海自体はもはやアクセスできなくなっているからです。これは問題です。なぜなら、それは対象と性質が常に一対のものであるという妥当な現象学的原理を公然と無視しているからです。たとえ部分的に分離可能であっても、です。つまり、私たちには隠れた空虚なものを離れて単独で存在する濃いぶどう酒のような性質を持つことはできません。「濃いぶどう酒のような海」という隠喩には、直接関与する対象が存在しなければなりません。私たちは、アクセスから退いている海がそうであってはならないことを確認しました。同様にぶどう酒も、海に性質を与えるためだけに隠喩に入ってきており、独自の対象としては入っていないので、隠喩は「海のように濃い色のぶどう酒」と逆転しなければなりません。私たちが見てきたように、場面には他に一つの選択肢、つまり別の現実の対象しかありません。その現実の対象とは、私、隠喩の鑑賞者なのです。濃いぶどう酒のような海を演じさせられているのは私なのです。隠喩はパフォーマンス・アートのひとつのヴァリエーションに過ぎないことがわかります。他のあらゆる種類の芸術も同様です。なぜなら、鑑賞者の関与なしに芸術は存在しないからです。たとえ最初の制作段階で、通常芸術家が唯一の、あるいは極めて少数の鑑賞者である場合でさえそうです。こうしたパフォーマンスは、文字通りの(引用者追記「リテラルな」)認識の場合には起こりません。なぜなら、その場合、対象は場面から消えることがなく、したがって置き換える必要がないからです。鑑賞者に美的体験を他の体験から区別させるのは、鑑賞者に対して(私たちがその呼びかけに気づき、少なくともある程度作品に説得されるならば)、欠けている対象に代わり、半ば不適切に割り当てられた性質を支えることが求められるということです。完全に適切な割り当ては、美的比較ではなく文字通りの比較になるでしょう。「トランペットとコルネットは似ている」「moth(蛾)とButterfly(蝶)は似ている」といった具合に。